第I話 白い病院――沙慧
ひとは、仮面を被ることができる。心を偽ることができる。
それに気付いてしまったから、ひとを信じることができない。ひとを、怖れてしまう。
仮面を信じて、真実が違うことに気付いたら、血を流すのは自分だから。
失ったときの喪失感は、果てしなく重く、寒く、虚しい。
それを知ってしまったから、手に入れることが怖くなる。執着することが、怖くなる。
いつか失うのかと思うと。それがどれだけ、他人を傷つけるのかも知らないで。
こんな僕たちは、一体どこに行けばいい?
東京マヨイガ
シンとした病室に、機械の微かなうなりが大きく響く。規則的に響く電子音、時計の秒針が動く音。それらが、この白い空間に、時の流れを教えてくる。
高村沙慧は、目の前のベッドに眠るひとを、じっと見つめていた。
眠るひとは、穏やかな顔をしていた。病院のパジャマに包まれた胸元が、僅かに上下を繰り返す。沙慧が立っているのとは反対方向にある右腕には、幾本かの管が繋がれて、その管は、ベッドの向こう側に密集している医療機械に繋がっていた。
沙慧は微動せずに、その寝顔を見つめる。制服のスカートの裾は、ぴくりとも揺れない。
医療機械の向こうにある窓はぴたりと閉ざされ、その白いカーテンが風を孕んでゆれることはなかった。
沙慧の吐息が微かに震えた。音にはせずに、このひとを呼ぶ。
おかあさん…
自分にはそう呼ぶ資格がないのだとわかっていても、呼ばずにはいられなかった。
このひとにもう一度、屈託無く笑ってもらいたい。
心からの安らぎと共に、名前を呼んでもらいたい。
穏やかに、他愛ないことを話し合いたい。
ふ、と沙慧の口元に、嘲るような笑みが浮かんだ。
――嘲笑。自分への。
屈託無く笑ってもらいたいなど。
名前を呼んでもらいたいなど。
矛盾していると思う。
口元の嘲笑とは反対に、拳をきつく握りしめた。スカートの裾が、ふぅ…とゆれる。
この状況を作り出したのは、自分なのに。
沙慧は嘲笑を掻き消した。
鮮やかに思い出せる。
暗い部屋、カッターの刃、震える声、何も感じていなかった自分。
カーテンを閉め切り、常に薄暗かった部屋。
怯えを消し去るように握りしめていた、硬質に光るカッターの刃。
部屋と廊下を隔てる扉の向こうから聞こえていた、懇願するような声。
感じることを拒否して感情を封じ、人形のように生きていた自分。
その情景が次々に脳裏に浮かび、沙慧は目を閉じて、身体がバラバラになるような痛みに耐えた。
思い出す度に、身体が軋む。間接がバラバラになるような痛みが起こる。
そして、その痛みを伴って、浮かび上がってくる記憶。
躊躇うように開く扉。
扉の向こうに立っていた母は、突然泣き崩れる。
ごめんなさいと、それしか言葉を知らないように、繰り返し続ける。
そんな母に、自分は、
冷たい凶器を投げつけた。
「どうしてあなたが謝るんですか?」
――その言葉は、「母親」という生き物に、どれだけの傷を負わせたのだろう。
その日を境に、母は―――
――痛い。
痛い。痛くてたまらない。
どこが? どこかが。
沙慧は目を開く。
自分に、痛いと泣く資格はない。辛いと嘆く資格はない。
すべて、自分のせいなのだから。
泣くことは許されない。嘆くことも許されない。うずくまることも、目を逸らすことも許されない。
罪を背負って―――
ふいに、背後の病室のドアが開いた。息を呑む気配がする。
沙慧はゆるり、と振り向いた。
――右腕に花束を抱えた女子高生が、立っていた。
女子高生は瞳いっぱいに驚愕をたたえ、呆然と言葉を押し出した。
「…沙慧…」
紡がれたのは、自分の名前。沙慧は、女子高生を呼ぶ。
「…姉さん」
女子高生はその声にびくりと肩を震わせたあとで、――スゥと表情を削ぎ落とした。声も、温度を感じさせない。
「何してるの?」
沙慧は何も言わない。足下に置いてあった学校指定の鞄を持ち上げ、踵を返す。
女子高生は、荒々しく病室に入ってくる。
「あんたにここに来る資格なんか、無いのよ」
知っている。沙慧はうつむき、唇をかみしめる。
病室の真ん中で、すれ違う。姉の鋭い視線が背を追いかけてくるのを感じながら、視線は合わせない。
「全部、あんたが壊した」
押さえきれない激情が滲み、姉の声が震えを帯びる。沙慧は黙って、敷居をまたいで廊下に出た。
「あんたさえいなければ、全部!!」
ぱたん、と。
軽い音を立てて扉が閉まる。閉ざした扉に背を預けた。
病室の静寂になれていた耳に、姉の叫びの余韻がわんわんと鳴っている。
深く長く、息を吐いた。
姉の激情は、当然だ。
自分が壊したのだから。
姉の瞳と声を満たしていたのは、憎しみと怒り。激しい色を伴って、自分を刺す。
ふいに、部屋の中から話し声が聞こえた。沙慧は知らず息を詰める。
母が、目覚めたらしい。
…おはよう、美祢。いつ来たの?
…おはよう、母さん…。ついさっきだよ…
…そう。何か、話し声がしたような気がするのだけど…
…ッ…。気のせいだよ…
…誰か来ていたの? 誰?
………
…もしかして、沙慧?
……!
…沙慧!?沙慧なのね!?
…っ母さん!
…なんてこと! 沙慧に謝らなきゃ!
…いいのよ、お母さん!
…ああ、沙慧! ごめんなさい!
…お母さん! 沙慧は、大丈夫だから!
…ああ、沙慧、沙慧、ごめんなさい! わたしが壊した!
…違う! 壊したのは沙慧よ!
…ああ、沙慧!ごめんなさい、ごめんなさい…!
姉の泣き声がした。少しして、こちらに近づいてくる看護婦の足音に気付いた。ナースコールを押したらしい。
沙慧は身を起こすと、ゆっくりと廊下を歩き出した。
沙慧がまとっている名門中学・永明学園の制服に、微かに視線が集まってくる。それを遠くに感じながら、沙慧は次第に早足になる。廊下の突き当たりにあるエレベーターに乗り、一階について受付のある玄関ホールをまっすぐに突っ切ると、病院の外に出た。
途端に、排気ガスのにおいが混じった外の空気がまとわりついてくる。病院を囲っている並木越しに、大通りの騒音が聞こえる。僅かに目を細めて、沙慧は病院を振り返った。
『都立精神病院』
この、三階。
母が、いる。
沙慧は何か言いかけるように唇を小さく動かしたあと、黙って病院に背を向けた。