闇と少女と深海魚
初投稿です。まだまだ下手くそですが、よろしくお願いします。
私がつらい顔をすると、たいていの人は私の体調を気遣う。「大丈夫」とか「元気出して」とか、腫れ物に触るように問いかける声は、私をうんざりさせる。
どんな言葉も、私の病気を治してくれはしない。けれど私はその都度お礼を言う。せめて十歳児らしく振る舞うことが、私を育ててくれた人たちに対するせめてもの恩返しだろうし、近い将来死にゆく自分の務めなのだろう。
「エリー」
下でお母さんの呼ぶ声がする。私は返事をして、覚束ない足取りで階段を降りた。
暗い暗い海の底。低い水温、重い水圧。死の世界なんて呼ばれてるみたいだけど、僕にはそうとも思えなかった。
いつもの癖で、頭についている提灯をふいっと振る。ずっしりと溜まった暗闇のヘドロが、箒で掃かれたように姿を消した。かわりにゆらゆらとたなびく海藻や、海底に突っ伏したきれいな貝殻が僕の目に飛び込んで来る。僕は目を細めてその様子を眺めた。
僕のように光を操ることのできる魚は他にいない。少なくともこの辺には。だから僕は自分のことを気に入っていた。覆い被さった闇を照らし、それまで隠れていた景色を眺めるのは、僕だけに与えられた贈り物のような気がした。
「やあ、ドロン」
僕は声の主を探して、辺りを見回した。
「あ、こんにちわ、ヒューイさん」
小さくお辞儀をした。ヒューイさんは僕が生まれる前からここらを管理している、いわば主だ。ヒューイさんは定期的に顔を出し、みんなの暮らしを支えている。
「元気にしてたかい?餌に不自由してない?」
その都度首を縦に振り、ヒューイさんはそれはよかったと顔をほころばせた。 僕たちは助けあって生きている。誰かがお腹を空かせていれば、蓄えていた食料を分けてあげるし、何か目標があれば出来る範囲でサポートする。それは無理やり決められたルールというよりも、『死の世界』と呼ばれている深海では、暗黙の了解と言っていい。
そして、僕にも一つだけ悩みがあった。
「ヒューイさん、どうして僕には友達ができないのかな」
ヒューイさんは苦笑しながらあぶくを出した。
「ドロンはいい子だよ。私が保証する。ただみんな、お前のいい所が見えていないだけなんだよ」
「どうすれば僕のことを分かってもらえるのかな」
僕はため息まじりに呟いた。
「お前は自分にできることだけを一生懸命にやればいいんだ。そうしたらきっと、お前の気持ちは伝わるよ」
「僕にできることって」
「それはドロン自身が考えないと」
難しいなと頬を掻きながら、ヒューイさんにお礼を言った。
「それじゃあ、私はそろそろ行くよ。今日はいろんな所を回らないといけないから、忙しいんだ。ドロン、焦らなくていいんだからね。少なくとも私は、お前の優しい心を知っているよ。じゃあ、また」
ヒューイさんと別れて、僕はぼんやりと考えごとをしながら散歩を始めた。相変わらず暗く、静かな海底をあてもなく泳いだ。
「あ、ドロンじゃん」
いつも何匹かで集まっておしゃべりをしている、顔見知りの魚だ。今日は三匹で遊泳をしている。
「こ、こんにちは」
僕はこの魚たちのことが苦手だった。なんでか分からないけど、僕のことが嫌いらしい。いつも僕を見ると意地悪な笑顔を浮かべるし、きついことを言われることも度々あった。それでも、
「僕もいっしょに泳いでもいい?」
と勇気を振り絞って尋ねた。
「はぁ?身の程を知れっつーんだよ、ドロンのくせにさ。不細工な顔に、おまけに何だよ、その提灯。はっきり言って気持ち悪いよ、お前」
三匹が揃って笑った。
「そんなこと言わないで、お願いだよ。僕、友達がいないんだ」
「そりゃそうだろ。お前みたいなの、誰も相手にしねーよ」
「そんな……」
僕はただ、友達がほしいだけなのに。自分自身の姿を見ることは出来ないけど、僕は自分に誇りを持っていたのに。絶望に打ちひしがれ、うなだれていると、一匹が思い出したように口を開いた。
「そうだ」
嬉々とした表情で、踊るように泳ぎながら続ける。
「上の世界に行けよ」
「上の世界?」
「そうそう、お前も知ってるだろ。ここよりももう少し上に行ったら、明るくて温かい海がある。そこに暮らす魚はみんな優しいらしいから、お前にも友達ができるかもしれないぞ」
「本当に?」
せわしなく泳ぐ姿を目で追いながら、興味半分、疑い半分で聞き返した。
「上の世界は危ないって聞くけど、大丈夫なのかな」
「大丈夫だって。自分を変えるには特別な冒険も必要だぜ。それとも、ドロンは一生このままでいいのか」
「それは……」 ぴたりと動きを止めて、にやにやと笑いながらまくし立てる。
「そうと決まれば善は急げだ。今からでも行ったほうがいい。大丈夫、みんなには俺たちが伝えておくから」
「うん……わかったよ」
いまひとつ釈然としなかったが、僕は海上に向かってヒレを動かした。言われたことを全て信じたわけではない。それでも新しい出会いが僕を変えてくれる気もしたし、外の世界にたいする憧憬みたいなものもあった。
冷たい水を蹴り、ひたすら上を目指した。やがて下の景色が黒い吹き溜まりのようになり、いよいよ引き返す決心も鈍ってきた。
「いいのか、あんなこと言って」
「厄介払いもできたことだし、別にいいだろ」
「ヒューイの爺さんにばれたら、俺たちもただじゃ済まないぞ」
「分かりゃしないよ。ここじゃ餌も取れないで死んでく奴なんてざらなんだし」
「それもそうだな」
「じゃ、ナンパでもしに行くか」
どれくらい泳いだろうか。僕はもともと長距離を泳いだりはしないので、筋肉にかなりの負担がかかっているのを感じた。いい加減水をかくのもつらくなり、少しばかり休憩をとることにした。
先程から視界もかなり開けてきて、何匹かの魚が僕をもの珍しそうに眺めている視線も感じることができた。けれど今は話しかけることよりも、息を整えるのが先決だ。呼吸をするたびに、エラから大きなあぶくがはきだされた。
「お兄ちゃん、ダーレ?」
間延びしたかわいらしい声に振り向くと、小さな、子供っぽい魚が好奇の目を僕に向けていた。
「僕はドロンって言うんだ。深海から、友達を作りに来たんだ。坊やはなんて言うの?」
「んっとね、マイヨ」
マイヨはもじもじとしながら、嬉しそうに答えた。
「そっか、いい名前だね。マイヨは一人なの?」
とたんにマイヨは顔を曇らせる。
「お母さんとお父さん、突然いなくなっちゃったの。」
「そうなんだ……」
肩を落とすマイヨの姿を見て、自分の軽薄な質問を反省した。
「お兄ちゃん、いっしょに遊ぼうよ」
「そうだね、何しようか」
「かくれんぼがいい!」
こうして遊ぶことで、少しでもこの子の寂しさが紛れれば、お互いにとってプラスになるように思った。マイヨが隠れる間、目を閉じながら初めての友達ができた喜びに、体を震わせた。
何日か経ったある日、僕たちはいつものように遊んでいて、逃げるマイヨを追いかけていた。僕は結局ここに居着いてしまった。居心地も悪くないし、何よりマイヨを放って旅立つわけにもいかない。
僕たちは適当な岩場を見つけて、そこで寝食を共にしている。毎日が充実していて、僕は深海で暮らしていたときとは違う幸福感を味わっていた。
追いかけっこを続けているさなか、ふと前方に見慣れない物体が漂っていることに気付いた。それはとてつもなく巨大な海藻のように見えた。海藻にしては細かい隙間があって、小さな入口らしきものもある。
僕は直感的に、この物体の異様な不気味さに恐怖を覚えた。しかしあろうことかマイヨが、そのぽっかりと開かれた口の中に入って行ってしまった。
僕は慌ててマイヨを追いかけた。
「マイヨ、待って。その中に入っちゃだめだ」
しかしマイヨは止まってくれない。その手には乗らないと言わんばかりに、益々スピードを上げる。僕も続いて、丸く縁取られた入口をくぐる。凶悪な魚に飲み込まれたような錯覚を覚えた。
なんとかマイヨに追い付こうと、僕は重い体に鞭を打った。
やっと、追い付いた。
「マイヨ、すぐに、ここから、出るんだ」
息が切れて、喘ぎながら言い聞かせた。
「どうして?」
「何か、嫌な、予感がする」
「嫌な予感って……」
マイヨが言いかけたそのとき、体が強い力で引っ張られた。僕は一瞬でパニックに陥った。
突然の出来事に声も出せない。なんとか脱出しようともがいてみても、隙間だらけの物体が絡みつくばかりで、そのまま上へ上へと持ち上げられる。
「おっ、なんかスゲエの取れたぞ」
あまりの眩しさに目を開くことが出来なかった。同時に猛烈な息苦しさが僕を襲う。
廸朧とする意識の中で、ヒューイさんの言っていたことを思い出していた。
海の外にはチジョウと呼ばれる世界がある。 そこには確かニンゲンとかいう生物がいて……
「こいつは高く売れそうだな。卸し売りにするよりも、水族館にでも売り付けるか」
何やらわからない言葉を発するニンゲンを尻目に、僕は、死ぬのかなぁと思いの外冷静に、突如降り注いだ身の上の災難を見つめていた。
「お兄ちゃん、助けて」
甲高い、悲痛な声だ。その声に勇気づけられこそしなかったものの、それでも唯一の友人の必死な願いをなんとか汲んでやろうという気持ちが、僕に最後の悪あがきをさせた。
「助けて、助けて」
僕もそれこそ死に物狂いでもがいた。けれどどうすることもできない。
「何だこいつ、活きがいいな」
ニンゲンは僕の尻尾を掴み、そのまま僕だけ別の場所に移された。遠のいていく意識の中で、マイヨの声だけがいつまでも反響していた。
ヒューイさん教えてください。僕に出来ることって何ですか?
「水族館」
私はお母さんの口から飛び出した単語をオウム返しにすると同時に、目を丸くした。
「どうしてまた」
「どうしてって……エリが行きたくないならいいんだけど」
「行きたくないってわけじゃないんだけど」
正直、あまり乗り気じゃない。外を出歩くのは好きじゃないし、それを押し切るほど魚好きかと言われれば、そういうわけでもない。
それでも、私の歯切れの悪い返答に困惑した顔をしているお母さんを見て、
「じゃあ行こっか」
と、結局断ることが出来ないのだから、世話はない。
お母さんは、私が入院をやめてからというもの、頻繁に外出に誘うようになった。
初めは私も、とてもそんな気にはなれなかったが、自分の運命を受け入れるようになってからは母親の言葉を反故にはしなくなった。自分のことで家族がつらい気持ちになるのは嫌だった。それとも自分自身気付かないうちに、生まれてこれてよかったと思えるような、そんな思い出が欲しくなったのかもしれない。
「よかった。じゃあ、早速準備しましょ。」
「えっ、もう行くの。お父さんは」
お母さんは笑顔を崩さないまま、
「お父さんは出張でいないのよ」
と答える。聞かなきゃよかったな、と後悔した。お母さんの頬の筋肉がぎこちなく緊張している。お母さんがこんな顔をするとき、お父さんは私の知らない女の人と会っている。
私に心配かけまいと、必死に笑顔を取り繕うお母さんがいたたまれなくて、「そうなんだ」とだけ言って、私は部屋に戻った。
私たちはこうして傷口を舐めあっている。私はときどき、こんな関係を悲しく思う。
「おぅ新入り、やっと目ぇ覚ましたか」
意識を取り戻して、状況確認をする暇もなくそんなことを言われるもんだから、僕はかなり混乱した。
確か、ニンゲンたちに襲われて……
「そうだ、マイヨは」
辺りを見回してみた。多種多様の生物がいる。海藻や岩場もあり、その隙間から気泡が断続的に出ている。透明な壁に仕切られていて、とても狭い海のようだ。しかし、どこを見てもマイヨの姿は見当たらず、僕は落胆した。
「おい、どうしたってんだよ。落ち着きのねぇ奴だな」
「マイヨが、友達がいないんだ。ここには来てないの?小さくて、かわいい子なんだけど」
「残念だが、ここに来たのはお前だけだ」
「そんな……ここに来てない魚たちはどうなるの」
恐る恐る尋ねた。
「どうなるって、そりゃ喰われるよ、人間様にな。子供だったら、天ぷらにでもされてんじゃねーの」
ある程度予想はしていたが、不安が確信へと変わり、僕はショックを隠せなかった。テンプラがなんのことかは分からないが、マイヨが死んでしまったことに変わりはない。
「なんでそんなひどいことを」
「おいおい、それは言いっこなしだろ。体格を見るに、お前も草ばっか食ってたわけじゃねーだろ」
「だけど僕は友達を食べたりはしない!」
理屈では分かってる。けれど、友達を失って、その上に心ない辛辣な言葉を浴びせれ、僕もかっとなった。
「ま、その辺の問答は置いといてだ、お互い自己紹介ぐらいしようや。俺はキール。人間たちの言うところの、ウツボってやつだ。お前は」
キールは今まで見たことのない姿形をしていた。体は細長くうねり、鱗が表皮を覆っている。大きな丸い目をしていて、時折見える歯は細かく鋭い。
「ドロン」
沈んだ声で、簡潔に答えた。
「暗い奴だなー。まあ、ここじゃ俺が先輩だからな。わかんねえことがあったら何でも聞いてくれや」
そんな気分にはなれなかった。しばらく押し黙って落ち込んでいたが、それで事態がよくなるわけもなく、とうとう僕も口を開いた。
「ここは何なの」
「ここか?ここは水族館っていって、そうだな、人間を観察するところだ」
「ニンゲンを?なんで」 そんなことの為に、僕はこんなところに連れて来られたのだろうか。
「人間側からしたら違うんだろうけどな、俺らからしてみたらそんなもんだよ」
「ふーん」
よくわからなかったけど、適当に相槌を打った。言われてみれば、確かにたくさんのニンゲンが僕たちを眺めている。大きいのや小さいのがいて、ニンゲンの大人と子供かな、と言われた通りに観察してみる。
いつも外出のときにかぶるピンク色のニット帽を引っつかみ、お母さんといっしょに外へ出た。
春風の吹く穏やかな気候で、木々には桜の花が萌えている。お母さんは花粉症対策にマスクを装着していて、私たちが並んで歩くとなかなかに不格好だった。
「いい天気ね。これだけ暖かいと、洗濯物もよく渇くわ。私、春って一番好きだな」
「そうだね」
手を繋ぎ、私は歩道側を歩きながら同意する。とは言っても、私は春が嫌いだった。風に舞う桜の花弁も、穏やかにせせらぐ小川の旋律も、全ての始まりを告げる季節ということ自体が、私を嘲笑っているような気がしてならない。
「エリちゃん大丈夫?疲れたら無理しないで言ってね」
「大丈夫だよ、ありがとう」
水族館までの道程はそう遠いものではない。恐らく、健康体の人間が歩いたら十分程度でたどり着くだろう。しかし、お母さんは私の足に合わせて歩くので、このペースでいくと倍は掛かりそうだ。こうまでして歩くのは、もはや意地と言ってもいい。
スムーズとは言えないが、お母さんと談笑をこなしながら、半ばまで歩いた頃だろうか。前方のT字路から小学生の集団が姿を表した。時間から考えるに新入生だろう、真新しい制服に身を包み、新鮮な笑顔を振り撒いている。あの子たちには、私にはない輝かしい未来がある。
すれ違いざまに、傷ひとつないランドセルに陽光が反射して、私はあまりのまばゆさに目をつむった。
「あっ、見ろよ。ハゲだ、ハゲ。女子なのに変なのー」
はっとして目を開くと、全員が私の顔を見て笑っている。お母さんが戸惑いながら、
「気にしちゃだめよ」
と私の顔色を窺う。
「大丈夫だよ、ありがとう」
私は帽子を目深に被り直しながら、気持ち早足でその場を去った。
私の髪。今はもう投薬の副作用で抜け落ちてしまった、私の長い髪。病気が悪化するまで伸ばしていた、柔らかく、まっすぐな黒髪は私の自慢の一つだった。 病気は私からいろんなものを奪った。髪を奪い、友達を奪い、時間を奪い、最後には私の命を奪おうとしている。
もはや私であって、私でない。イニシアチブなんてものは、とうの昔に私の手元を離れている。
歩きながらお母さんの顔を見やる。笑われることには慣れていた。けれど、そのことで周りの人が――例えばお母さんが傷つくのを見ているのが辛かった。
這う這うの体でなんとか水族館に着いた。結局かなりの時間が掛かってしまい、若干の後悔も入り交じる。入場券を買い、自動ドアの前に立った。
「ところでそれ何。地元じゃそんなのが流行ってるのか」
僕が律儀に観察を続けていると、キールはめんどくさそうに、力無く揺れる提灯を目で追う。
「これ? 光るんだ」
そういえば深海を出てからというもの、僕の提灯は完全に影を潜めていて、今ではただの飾り然と動きに合わせて漂っているだけだ。僕は久しぶりに明かりを点そうと、力を込めた。ぼうっと弱々しい光りを放った。
「何だよそれ。中途半端だな」
キールが期待外れといった様子で欠伸をする。
「おかしいな」
以前はこんなに情けない光りではなかったのに。僕自身、拍子抜けを食らった。試しに何回か点けたり消したりを繰り返すが、依然として、今にも消え入りそうで頼りない。
「ま、いいんじゃねーの。人間共にはうけてるみたいだし」
ふとニンゲンたちを見ると、確かに息を漏らし、嬉しそうに笑っている。
「喜んでくれているのかな」
「まあ、喜ぶって言っても、滑稽だから喜んでるって感じだな。それ、俺から見ても変だし」
キールは悪びれる様子もなく、淡々と言ってのける。悪意はないのだろうが、だからといって僕を傷つけないということはない。
「変、か」
僕は力を込めるのをやめた。あぁ、とため息が聞こえる。
「何だよもったいないな。ここでは芸のある奴のほうが待遇いいぞ。俺なんか欲しくたって何もないっていうのに、贅沢病だ。何のために付いてんだよ」
何のためって言われても、そんなこと僕が聞きたい。
深海で暮らしていた頃には、何でも照らしてくれるこの提灯は僕の自慢だった。それがいつしか、蔑まれ、笑われていくうちにコンプレックスへと変わっていった。
もうこの提灯は封印しようと決意したとき、一組のニンゲンの親子が僕のいる小さな海に近づいて来ることに気付いた。
するとどうしたことか、さっきまで笑って僕たちを眺めていた子供連れが、せわしなく移動を始めた。その仕草がどうにも不自然で、凶暴な魚から逃げるような、そんな慌ただしさを感じる。
「見ろよ、おもしろいのが来たぜ」
退屈そうに貝を小突いていたキールが、身を翻して壁に張り付く。
「おもしろいって、何が?」
水族館に来たばかりの僕には、彼らの言うおもしろいニンゲンの基準が分からない。
「だって見ろよ、あいつ女のくせに毛がないんだぜ。それに、今の人間たちの反応っていったら。ほんと馬鹿だよな。観察してて、一番楽しい瞬間だ」
「女は毛がないと変なの?」
「変だっつーの。例えばな、あれを見てみ」
キールがあごで指すので目をやる。燈色をした毛を携えたニンゲンが、背の高いニンゲンにくっついてはしゃいでいる。
「まあ、人間の女なんてあんなもんだ。あれに比べたら変だって分かるだろ」
「ピンクは変なの?」
女の子の頭部には毛とは違うように見えるが、一応それらしきものはあった。
「馬鹿、あれは帽子だろ。毛がないことを隠してんだよ」
「じゃあなんで他のニンゲンたちは逃げたの?」
サメという生物がいるのを聞いたことがある。獰猛で、肉食の性質を持つそれは、他の魚はその姿を見ただけで逃げ回るという。
彼女もそういったせいで逃げられたのだろうか。しかし少女の腕は誰よりも細く、とても力があるようには見えない。腕だけではない。体全体から脆弱さが滲んでいた。
「病気なんだろ、多分」
「病気?」
「ああ、毛がないなんて普通じゃないからな。それで子育て熱心なお母さん方は我が子に移されたら敵わないってことで、場所を移したわけだ。馬鹿だね」
長い舌を出しながら、念を押すように『馬鹿』という単語を繰り返した。
観察をすることに気を取られすぎ、少女の血の気のない顔をまじまじと見つめているときに、初めてこの子が僕のことをじっと眺めていたことに気付く。
少女と目が合い、背中に冷たいものが走るのを感じた。なんだろう、この感覚は。もの悲しく、それでいてどこか懐かしい不思議な感覚。
そのまま少女は居座り続け、何かを告げたかと思うと、親は心配そうな顔をしながら無数にある別の海へと向かい、少女は延々と僕を目で追った。
少女は毎日のように水族館へと足を運んだ。僕の覚えている限り、同じニンゲンが繰り返し来訪することは、一人の例外を除いて他にない。そして日課のように、僕のいる海を食い入るように鑑賞する。
僕は少女と目が合う度に不思議な感覚に捕われては、喉に刺さった小骨のようなもどかしさに首を傾げた。
「毎日のように来てるけど、随分気に入られてるな。なんか心あたりはないのか」
キールが気怠そうに言う。なんでキールはそんなにやる気がないのか以前尋ねたことがあるが、マンネリという聞き慣れない言葉が返ってきた。
「何もないはずだけどなぁ」
それは間違いないはずだ。ニンゲンとの面識はここが初めてなわけだし。
「変な奴同士、気が合うってことか」
「変とか言わないでよ」
少女はニンゲンから見ても変ならしく、遠くで少女を指差し、何やら囁いている。
「僕には違いがわからないよ」
僕の呟きは、泡になって小さな海を昇っていった。
一体自分はどうしてしまったのだろうか。
お母さんに連れられて水族館に行って以来、私は毎日のようにあの場所へ足を運んでいる。あの場所、というのは、かわいらしいペンギンでもなく、まして花形のイルカショーでもない。たった一匹の深海魚に私は惹かれ、言うことを聞かない足を引きずってまで通いつめる。
お母さんはそんな私を複雑な気持ちで見守っている。仕事があるので毎日付き合うというわけにもいかないが、入場料だけはいつも払ってくれていた。
今日も例の水槽の前に落ち着き、じっと深海魚を見据えていた。
これだけ毎日顔を見せると、スタッフも私のことを覚えているようでたまに声を掛けられたりもする。「お魚が好きなの?」と聞かれたときには返答に困った。サバの味噌煮以外には今まで興味もなかったくせに、私は何を求めているのだろう?
少女はいつものように泰然自若としている。毎日通っているのだから退屈ってことはないのだろうけど、この子はいつも鉄仮面で、感情が顔に出ることはなかった。
僕は次第に少女が可哀相に思えてきた。
なぜこうも疎まれ、避けられるのだろう。そんなにこの子は変なのだろうか。変だったら嫌われても仕方ないのだろうか。
この子は僕に似ているのかもな、と自嘲したときだった。そこまで考えて、ようやくずっと引っ掛かっていた疑問が氷解した。 彼女と目が合う度に背筋に走る、暗く、冷たく、重たい、それでいて懐かしい感覚。
深海だ。
僕の故郷で、周りからは死の世界なんて呼ばれている、あの深海の雰囲気が少女の身体中から発散されていたのだ。
この子はきっと苦しんでる。何かに心を痛めてる。 ヒューイさんは言った。僕にできることをすればいいと。
僕は何の取り柄もなく、助けを求める友達すら救えない、駄目な魚だ。
だけど――
ぐっと頭に力を込める。
だけど僕の提灯は、深海の闇を照らす光だ。
力強い光が燦然と輝く。僕はその光が、少しでも少女に届くよう祈りを込めながら、いつものように、頭を振った。
少女が大きな目を、ゆっくりと細めた。
了
初めまして、水無月 一と申します。作者の拙文に最後まで付き合ってくれて、本当に感謝です。これからも日々精進していけるよう努力したいと思います。