40.りかいしよう
魔女の店に、頭を抱えて悩む美貌の魔物がいる。
同じ空間に店員の多紀と店主の雫がいるが、二人ともそろそろと彼から距離を置き始めていた。
なぜならば、魔物の愚痴を聞きすぎて、うんざりしているところだったからである。
「もう店は閉めようと思っていたんですけれど」
彼が店内に入ってきたとき、とりあえず控えめにそう口にしたのは多紀だった。
すでに夜も遅い。満月ではないが、空には欠け始めた月が浮かんでいる。
店内の片付けも済み、明かりを落とそうとした頃にやってきた魔物は、入って来るなり叩きつけるように酒の瓶を卓上に置いた。
最近では見ることがあまりない、東方の酒である。
魔王が倒されて、商品の流通が元に戻ってきたとはいえ、まだまだ手に入らないものは多い。
嗜好品である酒などはその筆頭で、今魔物が手にしている酒は、魔獣の被害がひどかったため原材料が手に入らず、今年は作られていないと聞いている。瓶の汚れ具合からみて、少し前のものなのだろうが、値段が高騰しているため王都付近でも出回らない代物だ。もちろん多紀たちには手が出ない。
そんな珍しい酒だが、美貌の魔物はそれを盃にも注がず、乱暴に椅子にかけると、いきなり直接口にした。
唖然とする多紀と雫に向かって、半分ほど飲み干したところで、ようやく彼は顔を向ける。
しかし、目はすでに酒のせいで潤んでいるし、よく見れば普段は青白い顔が妙に赤い。
何度か一緒に酒を飲んだことがあるから、彼がすでに酔っているのだとわかってしまう。
だから、なおさら多紀も雫も嫌な予感がしたのだ。
そもそも彼がここへやってくるときは、大抵何か問題が起こった時である。それも、恋人との間に。
他に相談相手がいないのかと心配になるほど、何かあると店へ来て愚痴ることが多い。つい最近も、真っ昼間にここへやってきて、大騒ぎしたばかりだ。
ここは、あまり刺激しない方がいいと思い、多紀は当たり障りのない話題を振っていた。そのうち酔いつぶれてしまうのは、今までの経験上わかっている。
しかし、そう思っていたのは多紀だけだったようだ。聞かなければよかったのに、雫が『何か嫌なことでもあったのかい?』と言ったものだから、件の魔物は椅子に腰掛けたまま愚痴を言い始め、それがずっと続いているのである。
「要するに、私たちも酒を飲めばいいんだよ」
そんなわけのわからない理由をつけて、いつのまにか雫も酒を持ち出して椅子に座っている。夕飯もまだだったことを思い出した多紀は、呆れながらも台所に引っ込みお腹を満たすものをいくつか手にして、店内に戻ってきた。
「雫さん。そんなにがぶがぶ飲まないで、食べ物も口にしてください」
放っておけばそのまま潰れてしまいそうな勢いの雫の前にどんと皿を置くと、魔物の方にはつまみになりそうな物を差し出した。
「この間村に来た行商人から買ったんですけれど、北の方の名産で、魚を干したものなんだそうですよ」
軽く焼けばおいしいと聞いてさっそく試したところ、雫も多紀も気に入ったのだ。酒を口にするときは、これを出してくることが多い。
「い、いつもすまない。多紀は気が利くな」
どこか呂律の回らない声に、多紀は苦笑する。想像していたよりも、酔っているようだ。
「要するに、家に遊びに来る子供達に構ってばかりで、恋人が相手をしてくれないってことなんですか?」
あっちこっちへ飛んで要領を得ない魔物の話をまとめると、恐らくそういうことなのだろう。そう思ったのだが、魔物は大げさなほど手を振って、それを否定した。
「ち、違う。私も子供相手で忙しいんだ!」
いいわけにしか聞こえない。もしそうならば、わざわざここで愚痴る必要などないからだ。
「それよりも、もう魔王の脅威は去ったわけだし、いつまであそこにいるつもりなんですか?」
一度招待され訪れた、森の外にひっそりと建てられた屋敷は、貴族の別荘とでも言う雰囲気の、可愛らしい建物だった。以前住んでいた屋敷に比べればこじんまりしているとのことだが、住み心地はよさそうだ。
初めて会った魔物の恋人も、見た目は可憐な美少女で、どこか浮き世離れした気配を漂わせていたが、人に対しては友好的だった。
多紀が持って行ったお菓子について熱心に聞いてきて、自分で作って見ると言った姿は、人間とあまり変わりがなかったことを思い出す。
子供たちも彼女を怖れることなく遊びに行っているようで、魔女の店に寄るたびに、『面白い魔物のお姉さん』の話をしてくれる。
彼女は、目の前の魔物以上に、ここでの生活になじんでいるようだ。
「確か、魔王がいなくなるまでの期間限定のお引越だったはずですよね」
彼もそう言っていたし、一時的なものだから、落ち着いたら帰るのだとばかり思っていたのだが。
「いいんだ。子供たちは可愛い」
美貌の主が真顔で言った。
心なしか、目元が緩んでいる。
「だったら、どうして愚痴っているんだか」
心底呆れたという声とともに、雫は手にしていた酒を呷る。
文句を言う割には、魔物は子供たちが来ることを嫌がっていないし、恋人が子供を構うのも、心底止めさせたいわけではないようだ。
ならば、何故ここまで愚痴るのか。
そのあたりがわからず、雫と多紀は顔を見合わせる。これは、まだ何かあるのかもしれない。
そう思って、二人が魔物の顔を見れば、妙に神妙な顔になっている。
「……このままでいいのか、と思うのだ」
潤んだ目は酒に酔ったせいだけではないのかもしれない。
「私たちは、魔物だ。本当ならば、人からは忌み嫌われる存在のはずだ」
「皆がそういうわけではないよ」
雫はそう返すが、実際には魔物と人間は相容れないものとされている。人も魔物も互いのことをよく知らないからという理由も大きいが、相手の考え方が理解できないというのもある。
そのせいで衝突することもあり、人と魔物は住み分けをしているのが今の状況だ。
人に友好的な魔物や、魔物を怖れない人々もいるが、それでも考え方の違いから争いになることも少なくない。
だからこそ、よほどのことがなければ、つかず離れずの関係で、互いが干渉しあわないようにしているのだ。
「ああ、もちろん、それもわかっている。君達二人は私を友人としてみてくれているし、妙な偏見も持っていない。子供たちもそうだ。……でも、わかりあえないことはたくさんある」
「同じ人同士でも、そうです。別に魔物だからとか、人だからとか、関係ないと思いますけれど」
多紀の正直な気持ちだ。
ここには様々な人や魔物が訪れる。
その全てがいい人たちではない。後ろ暗いことをしている者だって、正直な者だって、いる。その全ての者たちの考えや思いを理解するなど、無理なことなのだ。
「多紀の言うことは、わかっているのだ。どんなに心から愛している相手でも、わからないことはたくさんあるし、嫌いな者の心情が理解できることもある」
だからそうではなくて、と魔物は眉をひそめた。
「魔物は、本来恐いものだ。機嫌が悪い時や、ちょっとしたことで、簡単に力を使ってしまうし、縄張りを荒らされたら、ひどい報復をするものもいる。私だって、嫌いな相手に不愉快なことを言われたら、容赦しないだろう。私の魔力はそれでなくとも、桁外れなんだ。少し調子が悪いだけで、魔力を放出してしまうことがある」
「だから、心配なのかい? 子供達のこと。何かの拍子に傷つけるんじゃないかってさ」
雫の言葉が図星だったのか、彼は罰が悪そうな顔をする。
「そんなこと気にする子供だちじゃないですよ。私だって、小さな頃だったら、きっと魔物の家を見に行ってます」
「そうそう。ああ見えて、あの子たちは危機に関しては敏感だからね。危なくなったらすぐ逃げ出すよ」
「それはそれで残念だな」
どこかほっとしたような、まだ納得できていない顔で彼は言う。
「それに安心しな。あんたがもし暴走するようなことがあったら、止めてやるよ。……友人だしね」
その言葉に、魔物は驚いたように目を見開いた。
「案外無茶を言うのだな、雫は。魔力が暴走した魔物を止めるなどと」
雫は面倒なことは嫌いである。他人のために動くことも少ない。そんな彼女が動くのはいつだって同じ理由だ。
「あんたのためだけじゃないよ。この森と―――村を守るのは、昔から魔女の役目なんだ」
ずっとここで魔女たちは生きてきた。
代々の魔女は、この小さな森を愛し、近くににある同じように小さな村の人々を慈しんできたのだ。
ずっと寄り添いあって生きてきたから、魔女を村人は恐れない。
頼りにするし、子供たちも魔女が好きだ。
だから、魔女にとっても、ここは大切な場所なのである。
「森の周りに住むものを守るのが、遠い昔からの魔女の役目。たとえそれが魔物であったとしてもね」
ああ、と呟いた彼の顔に、はにかんだような笑みが浮かぶ。
「私は、もう少しここに暮らしていてもいいのだろうか」
そう言った魔物は、まるで脅える子供のようだった。
「怖い魔物なら、もうとっくに追い出してますよ」
続く多紀の言葉に、今度は泣きそうな顔になった。
「そうだな。こんなに近くに魔物がいるのに、人である君は王都の軍に退治の依頼をしなかった」
軍人の中には、魔物や魔獣を退治する専門の部隊もある。冒険者の中にも、頼まれれば魔物退治を請け負うものもいた。
魔物はこちらが何かしなければ人の前に現れることも少ないとはいえ、人に害を為す魔物がいないわけではなく、そのためにある部隊であり冒険者なのだ。
「大丈夫さ。あんたは暴走しない。そこまでの度胸もないだろうし、そうなったらあの御茶目な恋人もあんたを止めるだろうさ」」
後半は半分からかうようなものだったが、彼は苦笑しただけだった。
「そうかもしれないな。これだけの魔力をもっていても、それ以外がだめだからって、隠居みたいな生活をしている私だから」
自嘲気味に言っているが、その顔にはもう迷子の子供のような危うさはない。
「ほらほら、せっかくの酒盛りなんだから、もっと楽しまないと」
雫が手元の瓶を取り、彼に酒をすすめる。
「難しく考えることはないのさ。隣人同士、少しでも互いを理解して、楽しくやろう。そう思っていれば、案外なんとかなるものさ」
たとえまったく理解できなかったとしても。
お互いに歩み寄ろう、尊重しようと言う気持ちが大事なのだ。
だからこそ。
これからもよろしくという意味を込め、雫と多紀は彼の盃に自身のそれを合わせた。
酒場では当たり前の、友情を確かめ合う行為に、彼は嬉しそうにうなずく。
「ありがとう」
魔物らしからぬ殊勝な言葉とともに、彼は盃の中の酒を飲み干した。
その顔の赤さと潤んだ目は、酔いのせいだけではなかったのだろう。
その後なし崩しに始まった宴会に、彼は一言も愚痴など言わなかったのだから。