4.えかき
絵描きが村に来ているんだってさ。
そう意味ありげに雫に言われ、商品整理をしていた多紀は、手を止めた。
普段のこの時間ならば、雫はまだ寝台の中のはずなのに、わざわざ店の方までやってきて、何を言い出すのか、と思ったからだ。
「何か企んでいます?」
声にやや不信感を忍ばせて、多紀は雫の反応を伺う。
いつもと同じようなにやにや笑いに、煙草。着崩した服は相変わらずよれよれで、普段と様子は変わらない。
だからといって、何か企んでいないと言い切れないのが、雫だ。
「いやだねえ、多紀。雇い主を疑うなんてさ」
それならば、もう少し真面目な顔と格好をすればいいのだ。
そんな胡散臭い顔で言われれば、警戒するのは当然である。
「自分の普段の行動を顧みてから、言ってください」
「欲望に忠実に生きているだけだ」
自慢にもならないことを堂々と言われて、多紀は呆れるしかない。いつものことだが、こうやって多紀をからかって、なかなか本題に入らないのも、雫の悪い癖だ。
「とりあえず、私、絵描きは嫌いです」
きっぱり言って、商品整理に戻ろうとした多紀の服を雫がひっぱる。
「おや、そうなのかい? 絵描きなんて、会ったことも見たこともないはずだよ」
痛いところをつかれ、多紀が押し黙る。
恨みがましい目差しなのは、雫が言おうとしていることをなんとなく察しているからだ。
「それとも、絵描きになろうって奴に知りあいでもいるのかい?」
「知りません」
「とにかくさ、その絵描きに頼まれたんだよ。村まで届けてほしいんだってさ」
「……何をですか」
「剣」
「絵描きなのに?」
「ああ、絵描きなのにさ」
言いながら、雫は細長い袋を多紀に見せた。膨らみ具合から、恐らくそれが雫の言う剣なのだろう。
「この剣に、ちょっとした魔物避けの魔法をかけて欲しいって頼まれたのさ」
薬や得体の知れないものばかり扱う店ではあるが、こうやって持ち物に護符の効果のある魔法をかけて欲しいと依頼してくるものもいるのだ。労力が低い割には、金を取れるので、雫はよく依頼を受ける。
それ自体は珍しくはないのだが、問題は、いつ雫はこの剣を預かったのだろう。
店番をしているのは多紀だが、ここ最近、客は一人もこなかった。雫が村へ出掛けていないのも知っている。
それとも、多紀が知らない間にこっそり外に出たというのだろうか。
これが一番可能性がありそうだった。
「一昨日、夜中にちょっと森をうろついていたら、自称絵描きにばったり会ったんだよ」
まるで多紀の心の内を読んだかのように、雫は言った。
彼女は時々、ふらりと森の中へと足を踏み入れることがある。特に予定があっての行動ではないので、多紀もその全てを把握していなかった。
「夜中に剣を持って彷徨いている絵かきから依頼を受けるなんて、何考えてるんですか。変な人だったら、どうするんですか」
比較的安全な森とはいえ、時には妙なものもやってくる場所だ。魔物程度なら、魔女である雫には害もないだろうが、悪意のある人間がこないとは言えない。昔に比べて平和になったとはいえ、夜盗の類がいなくなったわけではないのだ。
「いや、だって困ってたからさ」
「困るって、何を? まさか、こんな小さな森の中で迷子とか、そんな馬鹿なこと――」
「それが、あったんだよ」
小さな子供でも迷わないこの森で迷子?
頭を抱えそうになった多紀に追い打ちをかけるように、雫の言葉は続く。
「なんでも、月に照らされた森を絵にしたくて歩いているうちに、わけがわからなくなったんだとさ。ほんのちょっと右に歩けば、森の外だったのに、妙な男だよ」
「そうですか」
やる気も聞く気もない多紀の手は、商品の方へと伸びている。やりかけの片付けを昼前までには終わらせてしまいたいのだ。それなのに、雫はさらに多紀の衣服をひっぱって、こちらへ視線を向けさせようとしている。
「で、話をしているうちに、意気投合してさ。私が魔女だってことがわかると、守護の魔法をかけてほしいとか言ってきたんだけど、その流れで、うちに店番がいるって話をしたら―――」
「勝手にそんなこと教えないでください」
「もしかしたら、多紀が知り合いかもって話になってさ」
「は?」
今度こそ、完全に、多紀の手が止まった。
大きく見開かれた目は、驚きというよりも、嫌な予感がするという気持ちを映している。
「だからさ、言ったのさ。だったら、剣に魔法をかけ終わったら、あんたのところに店番を使いにやるよってね」
ひどく楽しそうな雫に、多紀は溜息とともに、信じられないと呟いた。
抱えた剣は、とても重かった。
当然だ。多紀は小柄な方ではなかったが、普段から大きな剣など持たない。せいぜい短剣だ。斧なら持ったこともあるし、それだってそれなりに重いものだが、やはり『剣』というだけあって、どこか恐い気がする。この森で生活するようになってからは遠ざかっていたが、まだ街の屋敷で働いていたころ、それを奮うのを見る機会は何度もあった。
血を流して倒れる姿は見ていて気持ちのいいものではないし、倒れた人間を見て、腰を抜かしたこともある。喧嘩のあげく剣を振り回した人間も街では珍しくなかったのだ。
けれど、決してそれを見慣れるということはなかった。
きれい事だと分かっていても、森で獣を狩るのとは違う、ただ傷つけ合うだけに使われる剣は、どうしても好きになれない。
それでも、腕に抱える剣に嫌悪感だけでなく、仄かに暖かいと思う気がするのは、雫がかけた守護魔法のせいだろうか。
人の命を奪うためではなく、持ち主を守るという目的でかけられた力は、この森の気配と同じく優しい。
ただ。
気になるのは、この剣の持ち主であるという自称絵描きである。
自分を知っているかもしれないという相手。
変なところで迷子になったり、絵描きのくせに剣を持っていたり。そんな人間に、心当たりがないわけではない。思い出の中にしまい込んで、すっかり忘れていたが、そういうことを言いそうな相手をたった一人だけ知っているのだ。
思えば、その人物には雫同様、振り回された記憶しかない。
いつだって勝手に多紀に関わってきて、飽きたら他の人間に意識を向けてしまう。二度と会うことはないと思ったから、全部忘れてなかったことにしてしまったのに。
今更、また関わりを持たれるなど、冗談ではない。
だから、願う。
どうか、自分の知り合いではありませんようにと。
似たような性質の別の人間でありますように、と。
だが、その期待は、村の広場に立っている背の高い男の姿を見つけたときに、脆くも崩れ去ってしまった。
「あー、やっぱり多紀」
こちらに気が付き、そういって笑ったのは、確かに見覚えのある顔。
かつて、同じ屋敷で働き、そこの主人が借金を抱えて奉公人たちを解雇したとき、一緒に路頭に迷った相手だ。
俺は絵描きになると宣言して街を飛び出して以来、一度も会っていない。
あの時は、多紀を含め周りの人間が皆、絵描きなど無謀だと止めたけれども、聞かなかった。
「……久しぶり」
外に言うべき言葉も見つからず、多紀はそう口にする。
「ほんと、久しぶりだよな。魔女が話す店番が、なんとなく多紀に似てるからさ。もしかしてって思ったんだ。前に、このあたりの出身だって言っていたし」
「奉公先を紹介してくれたのが、魔女だったんだよ」
そのことに責任を感じたのか、単に魔窟となりかけた我が家をどうにかしたかったのか、奉公先を失って途方にくれる多紀に、どうせ暇なら手伝えと声をかけてきたのが雫だったのだ。
「そういうあんたは、どうなの。うちの雇い主は、あんたは絵描きって名乗ったって言っていたけれど」
「え、ちゃんと絵描きだよ。一応、俺の絵を気に入って、買ってくれるような相手もいるんだ。とはいっても、まだまだ駆け出しだから、絵だけでは食べていけなくて、傭兵まがいのことや、商隊の護衛をしてる」
だから、剣なのか。
実用的な剣の重さに納得できた気がした。
彼は、多紀がいた屋敷でも、主人の護衛として働いていたのだ。幼い頃両親を亡くし、叔父である傭兵に育てられたと言う彼は、剣の腕は確かで、人懐っこい性格から主人にも気に入られていた。
誰にでも優しくて、誰にでも愛想よくて、結局誰も選ばず、一人きりで行ってしまった男だ。当時、彼に焦がれて、叶わなかった女性を何人か知っている。彼の旅についていこうとした者もいたようだけれど、その誰もが置いて行かれてしまった。
そのことを、男は知っているのだろうか。
「これ、魔女から」
そう言って剣を渡しながら、本当は知っていたのではないかとも思う。
結局のところ、誰にも本心は見せなかったし、一番深いところには、誰も立ち入らせなかった。自分に対する好意に対して鈍感なふりをしていたことも、多紀は知っている。
結局、どんなに願っても、きっと彼は一人で行くことを選ぶのだろう。置いていかれる方の気持ちなんて、おかまいなしなのだ。
屋敷内で、年が近いという理由でそれなりに親しかったはずの自分にも、たった今まで連絡ひとつなかったのだから。
「あなたの希望通りの守護魔法がかけてあるそうよ」
「お、早いな。やっぱり評判通りだ」
今も、彼は無邪気に笑って剣を受け取っている。その笑顔は昔と変わらず、人を引きつける華やかさがあった。
それを見ないように少しだけ雫は視線を逸らしたのは、心の中にまだわだかまりがあるからかもしれない。
「うちの魔女は、優秀だからね。安心していいよ」
素っ気ないふりで、魔女の仕事について口にするが、言っている事は真実なので、声に少しだけ誇らしい気持ちがこもる。
本人には、絶対に言わないが、雫が優秀であることは、多紀は認めているのだ。
だから、人に雫のことを話すときは、胸をはって彼女を誉める。
「楽しそうだなあ、多紀」
男が、多紀の顔をやけに真剣な目差しで見つめながら、ふいにそんなことを言う。
「本当に、楽しそうだ。屋敷にいた頃は、いっつも仏頂面しててさ、俺にも怒ってばっかりだった」
「それは、あなたがいつもだらしない格好していて、部屋は汚し放題で、血のついた剣も放りっぱなしで……」
言い掛けて、まるで誰かのよう―――魔女と同じだと思う。
魔女にも同じように怒ったり説教したり文句を言っている。
でも、魔女とこの男は違う。
どこか、似ている二人なのに、確かに違うのだ。
「なんだかさ、魔女も、俺と似たような雰囲気に感じたのにさ、多紀は魔女のことを話すとき、いい顔なんだよな」
言われたとおりのことを、多紀も思ってしまった。
この男を怒っていたときは、胃も痛かったし腹立たしかったしちっとも言うことを聞いてくれないことが嫌だった。
自分のことをからかってばかりで、本心を見せてくれないから、男を見るのが、少しずつ辛くなっていった。そして最後は彼女を一人残して、いなくなってしまったのだ―――好きだと言ったくせに。
「あーあ、馬鹿だよなあ、俺。いろいろ、本当に莫迦だった」
天を仰いだ男の顔は、見えない。
悔いているのか、それとも悲しんでいるのか。どちらにしても、もうすでに終わってしまったことだ。
あの日、彼は一人で旅立ち、多紀は生まれ故郷に戻った。
「同じだよ、私も。いろんな意味で馬鹿だった」
もうちょっと、素直になればよかった。
もう少し、優しくできればよかった。
それでも、置いて行かれただろうけれど、今のように後悔はしなかったかもしれない。
なかったことを思い返して、あれこれ悩むこともなかったかもしれない。
なにより、そうしていれば、ちゃんとお終いに出来ていただろうし、強引に忘れようとする思い出ではなく、懐かしい記憶として残ったはずだった。
「俺のこと、ちゃんと好きだった? 今更だけど」
「うん。好きだったよ、今更だけど」
今度はちゃんと素直に言えた。あの時は、一度だって面と向かって言えなかったけれど。
「そうか、よかった。俺も、多紀のこと、好きだった。全部、本当に、冗談じゃなくて本気だったんだ」
男も、そうだ。
彼は悪ふざけの延長でしか、その思いを多紀に伝えてくれなかった。
お互いさまだ。
そう思えてくると、自然に笑みがこぼれてくる。最初は雫に言われて嫌々だったけれど、ここで男と会うことが出来てよかったのかもしれない。
男の方も同じなのだろう。
初めて見る、優しい笑みを浮かべている。もっと早く見てみたかったが、今だからこそ、知ることが出来た表情だ。
お互い、これでふっきれたということなのかもしれない。
「魔女に伝えておいてくれ。約束の報酬は、ちゃんと後日届けるからってさ」
「報酬? お金じゃなくて?」
「ああ。ちょっとお金が足りなくてさ。別のものを渡すって約束をしたんだ」
雫にしては珍しいこともあるものだ。
その報酬について、少しだけ気になったが、雇い主がいいといったのならば、多紀が口をはさむ理由などない。
「わかった、伝えておく」
「じゃあな、またいつか」
「うん。また、いつかね」
そう言って、笑顔で別れた。
いつか、なんていうのは、約束じゃない。あの時別れてしまった二人の道は、もう交わることはないのだ。
それでも、『いつか』という言葉には不思議な響きがある。
またどこかで巡り会えるのではないかという、そんな甘い夢を見ることも出来る。
その時は、今よりもっと言葉を交わし笑いあえることを願おう。。
しばらくして、届いたのは、一枚の絵。
どうやら、金が足りないという男に、残りの報酬は多紀でも自分でも描いてくれればいいと、ふざけたことを雫が言ったらしい。
だが、よく見ないと、その絵に書かれている物体が、性別どころか、人物なのかどうかさえわからなかった。目と鼻と口のようなものがあるから、たぶん人物だろうとは思うのだが。
「随分、斬新な絵だな」
雫が絵を見て唸っているが、それはたぶん上下逆さだ。そのことを指摘しようか多紀は悩んだが、元々、上下左右がよくわからない絵なので、指摘するのは止めにした。
「昔から、彼の書く絵は、これでしたよ。でも、こういう絵が良いって言う相手もいるらしいですから、世の中って本当にわからないです」
多紀にしてみれば、もうちょっとわかりやすいほうが、部屋に飾るにも人にあげるにもいいように思えるのだが、何故か新しもの好きな貴族や商人の間に、この手の絵が流行ってらしい。芸術方面に疎い多紀には、さっぱり良さがわからない。
「しかし、愛はあるんじゃないか?」
上下左右に何度もひっくり返しながらも絵を眺めていた雫が、そんな感想を口にした。
「どこにです」
「色遣いが、優しいじゃないか。森のようだよ」
言われて初めてそのことに気が付いた。
木々の緑、森に咲く花の色、湿った土。森で見かける色の全てが、その絵の中にあった。
「でも、やっぱりもうちょっと美人に描いてもらいたかったです」
画面の中央で、向かい合っているらしい、目と口と鼻らしきものがやたらと大げさにかかれた、人だか植物だかわからない人物らしいものに、多紀は正直に本音を言った。