38.よみち
夜の森の中に細く続く道は、界が持つ灯りをかざしても、遠くまで見通せない。
時折、灯りを反射して光る丸い点や、人の気配を感じて遠ざかる音は、森に住む生き物だろうか。
ここには恐ろしい獣はいないとわかっているから怖れることはないが、それでもふいに聞こえる鳴き声や足音には緊張する。
夜の森は、本来人の領域ではない。
無害な獣だけでなく、魔獣が当たり前のように現れるから、よほどのことがなければ足を踏み入れないのが当たり前なのだ。
この森も、魔女が住んでいなければ、そうだったのだろう。
どういう作用があるのか、魔女が住み着く場所では魔獣もおとなしい。
人から何かをしなければ、滅多に襲われることがないのだ。
魔女には不可思議な力があって、彼女たちが住む場所は常に守られる。
幼い頃おとぎ話として聞いた話は案外本当のことかもしれないと、静かな森を見るたびに思う。
それほどまでに、この森は穏やかで優しい。
ここに住む魔女は、いつも飄々として穏やかさや優しさとは無縁に見えるのだが、ああ見えてやはり彼女は優秀だ。
薬の知識だけでなく、同居人の桐とともに編み出した魔法の術式は、魔獣の被害で苦しんでいたこの国を救った。
そのことが評価され、桐などは『勲章なんてもらったぞ』と、界がいる部隊に唐突に現れて自慢していたはずだ。だが、それに貢献した魔女の方は、あまり名前を出さないでくれとばかりに、術が完成したとたん森の中に引っこんでしまい、あれ以来、軍の施設にも顔を出していないのだという。
『魔女らしいけど、いろいろごまかすこっちが大変だったよ』
そう言って、ことの顛末を詳しく教えてくれたから、界もある程度のことは把握している。
この国の王は寛大で、魔女とはそういうものだと笑い飛ばしたというが、魔女や魔法使いを胡散臭く思っているものも幾人かいるから、影で嫌味を言う者もいたらしい。
王が許したのだから、結局はうやむやになってしまったが、魔女は気まぐれな存在なのだと改めて示す結果になったようだ。
思わず浮かんだ苦笑とともに、魔女の店にいる、もう一人の女性のことを思い出す。
否―――本当はずっと頭の片隅に、その存在はあったのだ。
意識すれば会いたくなるから、一人になる時以外は考えないようにしていた。
触れたくなるから、夜は気を紛らわすように酒を口にした。
魔獣討伐の時も、戦うことだけを考え、一切の雑念を払うように剣を振るった。
それでも、ふと気を許した時に浮かぶのは同じ女性の顔だ。
時折届く彼女からの手紙は、もう何度読み返しただろう。内容もすでに頭に入ってしまっている。
自分が住む店のこと。
同居人の魔女の最近の行動。
村の人たちの話。
たわいない日常的なことばかりが書いてあるが、本当は彼女の周りにも魔獣の被害はあるはずだ。魔女がいるからこそ、最低限ですんでいるのだろうが、安全なわけではない。
だが、心配させまいとする気持ちは伝わる。
自分だって、彼女へ送る手紙には、不安にさせるようなことは書かなかった。
食べたもの、軍にいる友人の話。近くにある村の出来事。
苦しいと思うことも、体が辛いことも、怪我をしたときのことも書かなかった―――いや、書けなかった。
きっと彼女もそうだ。相手を想うからこそ、優しい言葉で穏やかな日常を書き綴る。ただ、もう一度再会することだけを願って。
だから、彼は死ぬわけにはいかなかったのだ。彼女を悲しませるようなことはしたくない。
その思いが通じたのか、辛うじて彼は大きな怪我もなく生き残ることが出来た。
それでも明日はどうなるかはわからない。
一向に減らない魔獣襲撃に、軍も国も疲弊していたのだ。このまま長引けばどうなるのか――生きて帰ることなど出来るのか。
界だけでなく、皆が考え始めていたときだった。
勇者が魔王を倒したとの一報が入ったのは。
それをと聞いた時、これで何もかもが終わると思った。
誰もが抱き合って喜んだ。
これで、ようやく元の生活に戻れる。
もちろん、残された桁外れに強い魔獣はまだ存在し、被害が急に減ったわけではない。それでも、少しずつ現れる魔獣の数が減り、魔王が死んだことに疑心暗鬼だった人々の顔に笑顔が戻りはじめている。
失ったものはあまりにも多く、国の中にも問題は山積みだ。だが、皆の顔は明るい。
これからは、魔獣や魔王に怯えることなく生きていけるのだ。
村を焼かれることも壊されることもない。せっかく実った作物もいつ魔獣に荒らされるかと心配することもないのだ。
界自身も、ほっとしていた。
これで、ようやく帰ることが出来るのだから。
そして、残務処理に走り回った末に、やっと勝ち取った休暇に、彼は迷うことなく、自分が帰りたいと思った場所―――魔女が住む小さな森へと足を運んだのだった。
夜の道の終わりには、暖かな明かりが灯る小さな家が見えた。
玄関先に人影があり、うろうろしている。
時折あたりを見回したり、ため息をつくように俯いたり。
その人影が急に動きを止めた。こちら――道の先を見つめているのは、男が持っている灯りに気がついたのか。
歩みを早めると、人影が誰なのか見えてくる。
「……多紀」
名を呼べば、驚いた顔がくしゃりと歪んだ。
「界さん」
そう口にしたとたん、彼女の目から涙がこぼれる。
「こんな夜遅くなるなんて」
待ちくたびれましたと言い笑おうとしたらしいが、うまくできないのか、すぐに泣き顔に変わった。
「すまない。陽のあるうちに戻れればよかったのだが」
家に一度帰り、転移石を持ち出す方が楽だったが、それだと直接来るよりも時間がかかってしまう。だから、別の部隊にいる同居人には、家に戻らずにそのまま魔女の店に行くと言付け、こちらに向かったのだ。
もちろん、魔女の店にも戻る日の連絡はしていたが、時間ははっきりし伝えなかった。だから、もしかすると彼女は今日一日ずっと待っていたのかもしれない。
「お帰りなさい」
小さい声が、嗚咽に混じって聞こえた時には、もう界は彼女の近くまで来ていた。
腕を伸ばして、その小さな体を抱きしめる。
腕の中のぬくもりは現実のもので、消えたりはしない。そのことに安堵するとともに、ようやく帰ってきたのだと実感する。
「……ただいま」
呟いた声に応えるように、背中に回された多紀の手に力が籠もる。
静かな森の中、ただ互いの鼓動だけを確かめ合うように、二人はいつまでも寄り添っていた。




