35.もうすこし
静かな夜だった。
暗い部屋の中も、静寂に包まれている。
そんな中、彼女はまどろんでいた。軟らかな敷布は、昼間洗って干したせいか、かすかにお日様の匂いがする。
そして、すぐ側にある暖かなぬくもり。
触れるか触れないかの近さにあるそれは、彼女を穏やかな気持ちにさせてくれる。
大切で大事な人。ずっと側にいて欲しいと思う存在だ。
無意識に身を寄せてしまうのは、離れがたい気持ちがあるからなのか。
明日になれば、彼女と男は、しばらく会うことさえ適わなくなるのだから。
勇者が選ばれ、集められた討伐隊とともに魔王討伐のために旅立ったのは、数日前。
それ以来、魔獣襲撃は増えている。
東方だけでなく、他の国での被害も目に見えて多くなった。彼女と一緒に住む魔女は、知り合いの魔法使いと共に、熱心に不可思議な鉱石の分析をしている。
最初に分析に失敗したとき、お手上げだと言っていたが、複数見つかっていた鉱石を慎重に調べていくうちに、少しずつわかってきたことがあったらしい。楽しそうに言っていたのは、つい最近のことだ。あれほど面倒そうに接していた魔法使いに対しても、そちら方面の魔法がなければ、分析が進まなかったと口にして、彼女を驚かせたのである。
あまり外に出たがらない魔女が、頻繁に魔法使いの元に通っているのも驚く原因だった。
もちろん、店のことはおろそかに出来ない。
身軽な彼女が、その手伝いやちょっとしたお使い程度をこなすことも増えた。
だがそれも、魔法使いが持つ転移石を使わなければ危険なことが多い。前はそれほどでもなかったのに、この村から大きな街へと続く整備された道にさえ、魔獣が出る。
ここでさえそうなのだから、人の住まない道だけがあるような場所はもっとひどい。
各国を行き来する商隊が大げさなほどに護衛を雇うのを、誰も笑わないのだ。
それどころか、個人で旅をする人も減った。
漠然とした不安が国に広がり、国境付近では魔獣だけでなく、交易が減って高価になった商品を狙って、盗賊も頻繁に出て商隊を襲う。
魔獣退治や盗賊退治、治安維持のために、国も軍を動かさざるを得ず、ここにいる男も、軍に復帰することになった。
まだ不安なのに、と彼女は思う。
動けるようになったとはいえ、体を動かさない次期も長かった。
見た目にはきちんと剣を扱っているが、まだ少し手にしびれが残っていることも知っている。
いくら大丈夫だと言われても、安心できない。
だが、人手不足なのも彼女にはわかっている。度重なる魔獣襲撃に、軍自体にも被害が多く出ているのだ。そのうち、一般のものにも徴兵が始まるのではないかと囁かれるほどに。
それに、もし彼女が止めたとしても、男は軍に復帰することをためらわないだろう。
かつて魔獣を倒せなかったということが、今も彼を苦しめている。
そんな思いがあるから、彼女にとって、男と会うわずかな時間はとても大切なものだった。
まだぼんやりとした頭のまま、彼女は目を開いた。
暗い部屋の中は、しばらくたって目が慣れてきても、輪郭が曖昧なままだ。灯していた灯りも、すでに火が消えてしまっている。
どこか心許ない気がして、彼女は手を伸ばした。
その先にあるのは、大きくてごつごつとした手のひら。
そっと指先をはわせると、どうしたといいたげに、男の目が開いた。
どこか眠たげな眼差しだが、彼もまた完全に眠っていたわけではないのだろう。
「もう少しだけ」
そうつぶやいて、男の体に身を寄せる。
「もう少しだけ、こうしていて」
今だけは、どこにも行かずここにいて。
言葉にならない思いは、同じだったのか。
強く引き寄せられて、抱き締められる。
この幸せを失いたくないから。
どうか、無事で。
明日には遠くへと旅立つ男の無事を祈りながら、彼女は男の胸に口づけを落とした。