26.はなしがあります
緊張している。
今までにないくらい、緊張している。
向かい合った多紀と、寝台に浅く腰掛けた男。二人は、さきほどから、互いに見つめ合ったまま――固まっていた。
事の発端は、多紀がとある人物に薬を届けにきたことから始まった。
店の常連客でちょっと前に、魔物討伐で怪我をした男性。現在療養中で、多紀が定期的に薬を届けている。
以前よりはかなり回復していて、薬に関しては、これで最後になるだろうと雫は言っていた。そうなると、多紀がここへ配達にくるのも終わりということになる。
そのことを伝え、前に貰った時計のお礼だと守り袋を差し出したら、彼はほんの少しだけ顔をしかめて、そして言ったのだ。
「話がある」と。
その時、いつもの無愛想な顔がさらに表情をなくし、真剣な眼差しが怖いくらいだったので、多紀は無言で3回も頷いてしまった。
「多紀」
名前を呼ばれて、多紀はぎゅっと両手に力を込めた。
なんとなく、彼が言いたいことはわかる気がした。今まで、それを男が口にしなかったことが不思議なくらいだったのだ。態度だけならば、男は多紀に対しての好意を隠さないでいる。ただ、言葉を貰った覚えがないだけだ。
「俺は、あなたのことが好きだ」
穏やかな声だった。いつもと同じような。
けれど、よく注意して聞けば、どこか硬く、男も緊張しているのだとわかる。
「俺と、正式につきあってほしい」
「それは、つまり恋人同士になるということですよね」
「……ああ」
もちろん、それ以外の意味がないということは多紀だってわかっている。
「返事は、急がない。……だが、その気がないのならば、きちんと断ってほしい」
男は真剣なのだ。
多紀も、それはわかっている。いつか来るだろうことだとも思っていた。
けれども。
黙ったまま、こちらを見つめる男を前に、喉はからから、緊張しすぎて顔も強ばっている。
男は多紀の返事を待つつもりなのか、黙ってこちらを見つめているだけだ。
何か言わなければいけない。どう返事するにしても、ちゃんと答えなければ。
「あ、あの!」
このままではいけない。そう思った多紀だったが、完全に声がひっくり返った。
男の顔が、わずかにひきつる。
「今すぐ答えられないならば、無理は、しなくてもいい」
その言葉に、今度は多紀の顔が青くなる。
気を遣われているというのはわかっていた。男は元々口数が少ない方だが、短い言葉の端々に、多紀が心苦しくないようにという気持ちが見える。
だから、誠実にならなければと思うのだが、改めてこうやっていると何をどう答えればいいのかわからなくなる。
思いはひとつだ。
雫に言ったように、この男のことは嫌いではない。むしろ、好きなのだと自覚してきている。
だが、どうしても素直に頷けないのだ。
怖いから。もし、ここで返事をして、好きだと言って――男が、仕事に復帰したらと思うと、怖くなるのだ。
またあんな怪我をして帰ってきたらどうしようとか、遠くで知らないうちに死んでしまったりしないかとか、悪いことばかり想像してしまう。
「違うんです。私……」
どう言えばいいのだろう。
失うかもしれないことが怖くて、臆病になっているなどと言えば、困るのは男の方だ。
いくつも恋をしてきて、それなりに経験はあるつもりなのに、こんなふうに言葉に詰まるなど、初めてのことだった。
これまでの恋の相手が、身近な人だったからなのか、それとも、命を脅かすような場面に相手が陥ったことがないからなのか。
「あなたのことは、嫌いじゃない。だけど……」
この心の中のもやもやが、返事を渋らせる。昔ならば、ただ好きというだけで、突っ走っていけたのに――その時から、そんなに時間がたっていないのに、今はこんなにも臆病だ。
そんな多紀を見ていた男がふいに外に目を向ける。
つられるように、多紀が視線を動かすと、窓の外には、青空が広がっていた。
「少し、外を歩かないか」
ほんの少し、唇の端に笑みを浮かべて、彼が言った。
「俺に言いたいことがあるのなら、ちゃんと聞く」
だが、そんなに強ばった顔をしていては、言いたいこともいえないだろうと、男は続ける。
「ちょうど、外に散歩に出る時間だ」
男は、最近、体を動かすために、家の周りを散歩しているらしい。まだ長い距離は無理だが、軽い運動ならば問題ないということと、少しでも早く仕事に復帰するために、できることからやっておきたいらしい。もうしばらくすれば、剣を握ることもできそうだと、話してくれたのを覚えている。
「そう、ですね」
外は気持ちよさそうだ。気分を変えるためにも、頭をすっきりさせるためにも、場所を移すのはいい考えかもしれない。
「そうか」
男はゆっくり立ち上がり、多紀に手をさしのべた。
その手をとるべきかどうか、少し悩んで、結局そっと多紀は自分の手と差し出す。
思いの外強い力で指先を握られ、反射的に引っ込めようとしたが、それは叶わなかった。どうやら、男の方は、放すつもりはないらしい。
ぎごちない仕草で男に手を引かれながら、二人は無言のまま、外へと向かう。
玄関を出る時、後ろで、「何やってんだよ二人とも、がちがちだろ」とあきれたような魔法使いの声がしたが、聞こえないふりをした。
そうでなければ、恥ずかしくてやっていられない。
家の周りを一周してみたが、あまり会話は弾まなかった。
手入れされた庭では、春らしい綺麗な花が咲いていたが、それを話題にしても、話が続かない。
わかったことは、この庭の手入れは魔法使いがやっていることと、男が花の名前を知らないということくらいだった。
家の中にいるよりは、気分は落ち着いていたが、二人の状態は、あまり変わっていない。
結局、平静なようでいて、男も緊張しているままだし、多紀も考えがうまくまとまらず、言葉を選べずにいる。
だが、いつまでも先延ばしには出来ない。
覚悟は決めるべきなのだ。
大きく息を吐き、とうとう多紀は立ち止まった。
数歩進んでから男が足を止め、振り返る。
「界さん」
改めて名前を呼ぶ。
そういえば、彼の名前をまともに呼ぶのは、これが初めてではないだろうか。
「……失うのは、怖いんです。大事な人だとしたら、なおさら」
正直に、言った。
回りくどく言うよりも、その方がいいと思ったからだ。変に言葉を偽って、誤解されたくはない。
「怖い?」
呟くようにその言葉を口にした男が、ゆっくりと多紀のところまで戻ってきた。
「怖いのは、俺が軍人だからか」
頷くと、ぎごちなく動いた手が、多紀の頬に触れた。
「確かに、俺たちの仕事は、死と隣り合わせだ。今回のようなこともあるだろうし、訓練で命を落とすものもいる。……この手も、決して綺麗なものではない」
骨張った手は固い。剣を握る人の手だ。人や磨獣の命を奪ってしまう手だ。
でも、多紀は知っている。こうやって触れてくる手は優しい。器用で、時計を作ってしまうような繊細な指先だ。
「だが、そうだな。俺も怖かった」
囁くような声に、多紀は驚いて顔をあげる。
そこには、いつものとは違う、苦しそうな表情を浮かべた男がいた。
「あの時――」
そう紡いだ男の声は、かすれている。多紀の頬に触れた手も、一瞬震えた。
「もう駄目だと考えた時、思い出した――森の中の魔女の店にいた、あなたのことを」
「私、ですか?」
「魔女のところへ行くたびに、あなたのことを見ていた。ずっと、もっと話をしたいと思っていた。だから、お茶に誘われて、嬉しかった」
以前、店の片付けを手伝ってもらったお礼に、確かに多紀はそう言った。彼は覚えていないのではと思っていたのに。
「俺はそんなに若くないし、こんな職業だ。自分の気持ちは、伝えずにおこうと思っていた」
その頃、あちこちで魔獣の被害が増えていて、討伐に出ることも多くなった。それ以外にも、国境付近で、時々小競り合いがある。いつ怪我をしてもおかしくない状態だったのだ。打ち明けたとしても、将来の約束など出来ないと思っていたし、多紀にとって男はただの常連客でしかない。
告白して断られ、気まずい気持ちになるくらいならば、ただの客でいいではないか。
そう考えていた。
それが変わったのは、やはり、命を落としかけた時だろう。
このまま死んでしまえば、きっと彼女に忘れられてしまう。
ただの客にしかすぎないのだ。最近見かけなくなったくらいにしか思われないのは、悔しかった。
「必ず生きて帰るとも言えない。もしかすると、とても悲しませることになるかもしれない。だが、それでも気持ちだけは伝えたかった」
後悔するなら、やはり好きだと言いたい。
断られるかもしれないが、同じ後悔するのならば、やるべきことをやってからにしたい。そう彼は告げる。
同じだ。
多紀もそう思っていた。
彼が、軍人ではなく時計職人だったのならば、きっとここまで迷わなかっただろう――そうも考えたが、果たしてそうだろうか? その時は、また別のことで悩むかもしれない。
結局は、状況が変わっても、どんなに条件がぴったり合っていたとしても、同じなのだ。
好きだから臆病になるし、大事だから不安になる。
「あなたが怪我をして寝ているのを見たとき、怖かったんです」
もし、魔女の薬が効かず死んでしまったら。そう考えたら、苦しくなった。胸が痛くて、どうしようもなく不安になった。
もうその時から、自分は男が好きだったのかもしれない。
「もし、あなたが死んでしまったら――今だけじゃない、これから先、同じことが起こって、私の知らない場所であなたが命を落としてしまったら、どうしようって。怖くて怖くて、たまらなくなりました」
自分と男は、ただの客と店員だ。だから、今の関係のままならば、仮に彼がいなくなっても、そのことさえ知らずにいることになるだろう。男が思うように、最近、来なくなったなと考える程度で、忘れていってしまうのだろう。
そうなったら、きっと後悔する。
思いを告げても告げなくても、同じようにあの時こうすればよかったと考えるだろう。
ならば、男が言うように、自分もやるべきことをやってから後悔したい。
「……好きです」
小さな声だったと思う。わずかに目を伏せて顔も見なかったから、
「私はあなたが好きです」
繰り返した後、顔をあげると、何故か驚いたような男がいた。
「本当に?」
「はい」
よかった、と聞こえた気がした。
そのまま、男の手が多紀の背中に回り、抱きしめられる。
その腕の強さに、幸せだと思う。
まだ怖いけれど、それでも思いを口にしてよかったと素直に感じた。
だから、どうか、この幸せが壊れたりしませんように。
今は、そう思うだけで精一杯だった。