2.いと
『糸車を無くしてしまったのです』
その客は、細く長い指先でゆっくりと髪をかき上げながら、そう言った。
あらわになった首も細い。
きっと、服に隠れて見えないところも、細いのだろう。
「それは、つまり、糸車を探してほしいということでしょうか?」
一応ここは魔女の店だ。
物は売るが、探し物をすることはない。だいたい、そんな面倒なことを、主である雫がするはずもない。
『いえ、どこで無くしてしまったのかは、わかっています』
悲しげに俯いた客の目から、ほろりと涙がこぼれた。
奇麗な透明の水滴は、頬を滑り落ち、客の白い服に染みを作る。
その染みは、やがて青黒く変色し、服に穴を開けた。
ああ、やはり、と多紀は思う。
入ってきた時から、おかしいなと思っていたが、目の前で泣いているのは、人ではない。
魔女の店に魔物の類が来るのはめずらしいが、ないわけではないので、驚かないが。
『申し訳ありません。糸車を無くして以来、力の制御が上手くできないのです』
自身が流した涙が服を駄目にしたことに、気が付いたのだろう。
客はそっと涙を拭うと、深々と頭を下げた。
『魔女ならば、わたくしを人のように見せる薬を作れないかと思いまして』
「人にように見せる薬、ですか」
繰り返しながら、果たしてそういう薬を作ることは可能なのだろうかと考える。ここに住み込んで数年。魔女である雫から、そんな薬の話を聞いたことはなかった。
だが、ないとは言えない。彼女が知らないだけで、存在するのかもしれないのだから。
どちらにしても、雫に聞くことが先だろう。
「店主に確認してまいります。少し待っていただけますか?」
そう言うと、はいと答えて客はゆっくりと頭を下げた。
起きてくださいと寝台の中の店主を揺さぶると、布団の中からうるさいねえとくぐもった声が聞こえた。
「ちゃんと起きてるよ。あんまり気持ち悪い空気がただよっていたから、出ていくのが嫌だったのさ」
面倒そうに起き上がり、傍らにある煙草に手を伸ばしたのを見て、多紀が目を吊り上げる。
「寝台の上での煙草は禁止って、何度も言っているじゃないですか」
強引に煙草を取り上げられ、雫が不服そうな顔をした。
「私の家なのに……」
そうぶつぶつ言いながらも、雫は寝台から下りる。そのままの格好で出て行こうとするのを見て、多紀が慌てて服を引っ張った。
「着替えくらいしてください」
「はいはいはい」
「返事は1回で!」
多紀が手伝って、というよりも、多紀にされるがままに服を着て髪を整えられ、準備が終わった時には、雫は『ああ面倒』をすでに5回も口にしていた。
「あれだけ瘴気をまき散らしているんだからねえ。絶対面倒事だって思ったんだよ。ぐずぐずしないで、逃げちまえばよかった。……ところで、多紀、あんたちゃんと瘴気除けのお守りを持っているだろうね」
「当然です。この若さで私、まだ死にたくないです」
魔女ならともかく、何の力もない多紀が、魔物相手に真正面から向き合って話が出来るわけがない。
しかも、相手は、まったく力を制御できず魔物の特徴でもある瘴気が漏れまくりな状態なのだ。
「よし。ならば、会いに行こうじゃないか」
面倒だといいながら、どこか面白そうにも見える雫の後ろをついて歩きながら、多紀は急いで先ほど魔物が言ったことを伝えた。
「詳しい理由を聞こうじゃないか」
雫がそう言うと、椅子に座っていた魔物は、おずおずと顔を上げた。
「どうして、人間に見せかけたいなんて思ったんだい? 糸車を無くしたと言っていたけれど、それが関係あること?」
『無くした糸車を拾ったのが、魔法使いだからです。そして、彼はそれ持ち帰り、自分のものにしてしまいました』
「それは災難だったね。魔物の持ち物は、使いようによっては、魔法使いの益になるからね。欲しがる奴はいくらでもいる」
魔女と呼ばれる人間は、生まれた時から持っている魔力の量は決まっているが、魔法使いの力は生まれつきのものではない。才能ももちろん必要だが、膨大な知識と努力があって初めて使える力なのだ。
だが、中には真っ当な方法ではなく、簡単な方法で力を手にしようとするものもいる。
例えば、魔物の持ち物や、体の一部は、それ自体に魔力を有していることが多いので、足りない力を補うことも可能だ。故に、わざわざ魔物を狩ろうとする魔法使いもいる。
もちろん、その行為は誉められたことではないし、場合によっては魔力に飲まれ、自らを破滅させることにもなる。正式な魔法使いたちの間では、表向きはよくないこととされているくらいだ。
『わたくしは、魔物としては中級程度の力しか持っていないのです。両親から受け継いだ糸車が無ければ瘴気をうまく押さえることもできない。最初は自力で取り返そうとしましたが、屋敷の外には魔物を退ける結界があるため入れないし、魔法使いが外に出たときを狙っても、気配でわかるのか、いつも逃げられてしまって』
「だから、魔物の気配をうまく消して、魔法使いに近づきたいと?」
『はい』
「しかし、人間に化けたとして、そううまくいくと思っているのかい?」
『人をたぶらかす方法なら、幾つも知っております故』
それまでおどおどしていたはずの魔物は、唇を釣りあげて笑った。
深い藍色の瞳が露わになり、怪しげな光を放ったのをみて、思わず多紀は手首の腕輪に視線を落とした。この腕輪は、雫特製の瘴気や魔力から身を守る守護がかけられたものだ。雫の腕は信じているが、相手の力が強ければ、完全に防ぎきることができない場合もある。
目の前の魔物は、自ら力は中級程度と言っているが、やはり彼らの目からは、魔女や魔法使いと違う得体の知れない力を感じてしまうのだ。
よく魔物と出会って魅了されたという話を聞くが、そのどれもが相手の魔力が強いわけではないということも多紀は知っている。
それほど、魔物が人を魅了する力は特殊なのだ。
「あんまりうちの店員を脅かさないでくれよ」
身を強張らせていた多紀に気が付いた雫が、やんわりとそう口にする。
『ああ、申し訳ありません。うっかりしておりました』
その言葉とともに、魔物の目が自分から逸らされた気配がしたので、多紀は恐る恐る顔をあげる。
そこには再び目を伏せて悲しそうにうなだれる魔物の姿があった。
「その依頼、引き受けてもいい。そうだね、報酬は、あんたが取り戻した糸車で紡いだ糸―――っていうのは、どうだい?」
『そんなものでよろしいのですか』
「あんたにとっては、そんなものでも、魔女にとっては、ありがたいものなのさ」
雫は嬉しそうだが、多紀には魔物が紡ぐ糸がどれほどの価値があるのかはわからない。雫が扱うものの殆どがよくわからないものばかりだが、糸というくらいだからそれをつかって布を作る程度のことしか思いつかないのだ。もちろん、それは糸が多紀が思う『糸』と同じという前提があってのことなのだが。
「三日後においで」
その時までに、望むものを作っておいてあげるよと言う雫に、魔物はまた深々と頭を下げた。
「さあ、多紀。あんたの髪をよこしな」
魔物が出て行った後、雫が発した言葉に多紀は首を傾げる。
妙な行動や発言が多いとはいえ、意味のないことはしない雫だ。その彼女が言うのだから、魔物の欲しがる薬に、何か関係があるのだろう。
そう思うのだが、目の前で嬉しそうに笑い右手を差し出す雫に、うさん臭さを感じるのは、気のせいではないはずだ。
「魔力の欠片もない人間の髪を使って、ちょっとした薬を作ろうかと思ってね」
後ずさった多紀に、彼女の不安を察したのだろう。一応手だけは引っ込めて、説明をする。
「違う薬の応用なんだけどね、試してみたい方法があって」
雫が言うように、多紀には魔力はない。多紀だけではなく、この地に住む殆どの人間には、そんな力は存在しない。
数少ない魔女は別として、何百人に一人くらいしかいない魔法使いでも、最初持っている魔力は小さいのだ。
「私じゃないと、駄目なんですか」
「いや。誰でもいいんだけどね。村にいって髪をくれって言ったら、ただの変質者じゃないか」
すでに村での評価は変人だということは知っているはずだが、そのあたりはいいらしい。
「それに、どのくらいの量が必要かわからないんだ。いちいち貰いにいくのは面倒だろう」
まさか髪の毛全部をむしりとる気なのかと、ため息をつきたくなる。さすがにそこまではしないと信じたいが。
「使うのなら、給料に上乗せしてください。それなら、いいです。ても、それって後から何か害が出たりしないですよね」
多紀にとって、魔物はわからない存在だ。生態や種族など、雫の元で働くようになって昔よりは詳しくなったが、彼らの考え方や行動は、理解できない。
そんな彼らに自分の髪が入った薬を使われるのは怖い。
「大丈夫。一応制限はつけるし、無理やり作る薬だ。持続性もないはず」
「ほんとですか。雫さんの大丈夫は結構あてにならないですよ」
思えばそれで、何度かひどい目にあった。
「よくわかってるじゃないか。さすが付き合いが長いだけあるね」
「ふんぞりかえって、言わないでください」
確かに付き合いは長い。
森に一番近い村で育った多紀にとって、ここは遊び場でもあった。幼馴染みたちと一緒に、探検しつくした森なのだ。魔女にいたずらしたことも、魔女からお菓子をごちそうになったこともある。
気まぐれで、面倒臭がりで、寝てばかりいるけれど、嫌いになれないのは、文句をいいつつも相手をしてくれた思い出があるからかもしれない。
「ほんとに何かあったら、責任とってもらいますからね」
多紀がそう言うと、その時は一生面倒くらい見るよと冗談めかして笑われた。
「それに、実際作れるかどうかもわからない代物さ」
そう肩をすくめてみせる雫は、おもちゃを与えられた子供のようにも見えた。
結局のところ、彼女は薬を作ることが楽しいのだ。
失敗すれば、悪かったと客に謝るだろうし、成功すれば未練のひとつも残さずに、それを客に渡すだろう。
自分の評判がどうであろうとも、気にしない人なのだ。
それが、魔女というものなのか、それとも雫がそういう性格なのか。
多紀にはわからないが、変人だと言われながらも、村の人たちに受け入れられているのは、そのせいなのかもしれない。
『約束通り、やってまいりました。薬はできていますでしょうか』
訪れた魔物は、多紀の姿を見るなりそう言った。
三日前よりも、さらになにもかもが薄く細くなっている気がする。そのまま消えてしまいそうでもあった。
「薬の効用は一時的なもの。せいぜい1日程度だ。今のあんたの体力と魔力では、失敗するかもしれない。それでもいいなら、持っていきな」
雫の言葉に、魔物は卓上に置かれた薄墨色の丸薬をじっと見つめていた。
やがて、細く白い指先がそれに触れ、転がし、確かめるように手に取ったあと、ゆっくりと頷いた。
「いただきます」
その藍色の目に強い決意を宿し、魔物はそう告げた。
うまく行ったかどうかは、いつのまにか届いた大量の糸が教えてくれた。
引っ張っても切れない透明で細い糸は、何かを連想させるものだったが、多紀は気にしないことにした。
その糸を雫が何に使ったかは、また別の話である。