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15.そら

 空を見上げた。


「遠くに来たなあ」

 男は立ち止まると、視線を空へと向けた。

 青く美しい空には、雲ひとつない。

 この辺りは雨が降ることは滅多になく、雨期と呼ばれる時期以外は、空気も地面も乾ききっている。砂漠の中に存在する街も、砂と同化しているかのように白い。

「そうね、ずいぶん遠い」

 傍らに立つ女が、同じように空を見上げて呟いた。

「だって、まるで違うもの」

 それは故郷のことなのか、見上げた空なのか。

 真意を測りかねて男は女を見つめる。

 その視線に気がついたのか、女も視線を空から男へと動かした。

「大丈夫。私は幸せよ。こんなふうにいろいろな場所に行くことができて」

 女が笑った。

 滅多に見せない笑顔はどこかぎごちなかったが、真実を告げているのだと男にはわかった。

「そろそろ、この町に飽きてきたな。次はどこへ行く?」

 正直に言えば、女がそんな態度をとってくれるのは嬉しかったが、照れくささが先にたって、つい話を変えてしまった。女はそれに気づいたようだったから、敢えて何も言わない。

「そうね。前にあなたが言っていた魔女の森があったでしょう。そこに行ってみたい」

 自分と同じ魔女と、普通の人間である女性が一緒に住んでいるという、小さな森。

 その組み合わせに、立場は違うが自分たちと似た何かを感じている。

「そうだな、ほとぼりも冷めたかな」

 何しろ、浚った魔女がいたのは、隣の国。近くはないが、遠くもない。見つかる可能性も、ここよりはずっと高い。

「見つかったら、また逃げればいい」

 こともなげにそう言ってのける女に、男は苦笑する。

 逃げて逃げて――それでも、一緒にいることが嬉しくて楽しいのだから、自分たちはやはり魔女とそれを浚って逃げたどうしようもない男、ということなのかもしれなかった。



     *         *



 空を見上げる。


 くすんだ空は、濁った赤い色をしていた。

 沈みかけた太陽も、赤黒い。

 血と泥と、瘴気にやられ腐った植物が放つ臭いが混ざった中、彼は大きな岩に寄りかかり、そんな空をぼんやりと眺めていた。

 今の彼は、ぼろぼろだ。元は黒かった服もあちこち破れ汚れているし、足下を覆っていた頑丈な靴も原型をとどめておらず、かろうじて足に引っかかっているという状態だ。

 鎧は落ちた体力にはきつく、逃げるのに邪魔だと、とうの昔に脱ぎ捨ててしまった。

 このまま目を閉じてしまえば、二度と目覚めない気がする。

 それもいいかもしれない。

 男にはすでに血のつながった家族はいない。物心ついたときには両親はなく、彼を育ててくれたのは年の離れた兄だった。両親は、他国から流れてきてこの国に落ち着いたという話だったから、親戚もいない。

 その兄も、流行病であっけなく世を去った。それ以来、彼はかなり長い間一人きりで生きてきたのだ。

 悲しむものがいないわけではないが、彼が職業柄、死と隣り合わせだと知っているから、運がなかったと、思うだけだろう。

 仕事として出かける時は、常に何があってもいいように身辺の整理はしているのだ。

 任務を成し遂げられなかった状態で死ぬのだけが不本意だったが。

 瞼が落ちかけた時、指先に触れたのは、腰に下げていた小さな革袋だった。

 すでに中は空だが、ここに入っていたのは、薬だ。

魔女が作った、一般では売っていない代物。効き目は抜群だが、値段は高い。それでも購入する価値はあると、男自身は思っている。

『いらっしゃいませ』

 柔らかな言葉とともに、女の顔が、頭をよぎった。

 何故今、彼女の顔が浮かぶのか。

『茶はそのとき飲ませてほしい』

 そう言った自分の言葉をも思い出す。

 約束――そうだ、約束をしたのだ。

 小さな森の中にある、魔女の店。

 また行くと。その時は、茶をごちそうしてくれると言ってくれた。

 些細な、叶えられるかどうかもわからない約束だった。

 そんなことをこんな時に思い出すなど、どうかしている。

 だが、会いたいと思った。

 どこかのんびりしていて、居心地のよいあの場所に、もう一度行きたい。

 面倒そうな態度を隠しもしない魔女と、愛想のいい店員が、常連客である彼を迎えてくれる。

 あの小さな森の途中で見上げた空は、青かった。木漏れ日が地面に陰影を造り、森の中では、人も動物も魔獣でさえも、穏やかだ。

 まるで、懐かしい故郷のような。

 もう二度と訪れることが出来ないのかと思うと、苛立った。望む場所など、すでにないと思っていたのに、そうではなかったということか。

 ならば、生き抜かなければ。もう一度、あの場所を望むのならば、ここで朽ちるわけにはいかない。

 剣を握りしめた指先は、こわばっている。

 足にも、もうあまり力は入らない。

 傷薬も痛み止めも、すでに手元には残っていない。一緒にいたはずの仲間たちは逃げることができたのか、それとも自分と同じように取り残されたものはいるのか。

 今の彼には、それさえもわからない。

 ただわかるのは、自分たちが、魔獣の討伐に失敗したという事実だけだ。

 生きて帰ったところで、賞賛の言葉もねぎらいの言葉もないだろう。

 それでも、帰るのだ。

 そして、生きて帰ることができたら、まっさきにあの店に行こう。

 そのことだけを思い、彼は立ち上がった。



     *         *



 空が広がっていた


 澄んだ青い空の下には、大きな滝。

 散った飛沫が小さな虹を作るのを、青年は圧倒されたかのように立ち尽くして眺めている。

「すげー! これは是非描かねば!」

 青年は背負っていた荷物を下ろすと、その中から絵を描くために必要なものを取り出した。

 しばらくこの近くの村に滞在して金を稼ぐ予定だったから、ちょうどいい。


 何日目かの晴れた日、顔見知りになった村の老人が、いつも同じ場所で滝を見ている青年に声をかけた。

「にーさん、どうして空の色が赤いんだ?」

「心で見ているからだ!」

 自信満々に答える青年にあきれたように肩をすくめる。

「これはな。夕焼けだ」

 しかし、今は朝。夕焼けどころか、雲ひとつない真っ青な空だ。ちなみに、青年がこの場所を訪れるのは、必ず朝から昼までなので、夕焼けをこの場所で彼が見たことはないはずだった。

「それに虹の色はそんなに派手じゃない気がするなあ」

 辛うじて七色に別れた『何か』が虹だと考えた老人は、目の前に見える本物の小さな虹と見比べる。

 やはり、色が全然違う。

「芸術作品ってのは、わかんねえ」

 そんな呟きは、自分の世界に入り込んだ男には聞こえていなかった。

「書き終わったら、あいつにも見せてやろうかな。ずっと森ん中にいるから、滝に虹なんて聞いたら、絶対驚くぞ」

 ぶつぶつと呟きながら、ものすごい勢いで筆を動かす青年に、老人はあきれたような困ったような笑顔を向けたのだが、自分の世界に入っている彼は気がついていない。

「絵描きってのは、本当によくわからないもんだ」

 そう呟いて、老人はその場を離れていく。

 後に残されたのは、真っ青な空と、美しい虹を抱いた滝と、それとは違う色彩で書かれた絵を前にした青年だけ。

 そして、のんびりと時が過ぎていく。



     *         *



 木々の間から、青い空がのぞいていた。


「だから、そろそろ新しい恋をしたいのよね」

 女が、目の前にある花に向かってそう言った。

「恋って、おまえさん、この間伴侶を亡くしたばかりじゃないか」

 花弁が揺れ、花が答えた――ように見えたが、実際は茎の辺りに小さな男が座って、目の前にいる女を見上げているだけだった。彼が動くたびに、花がゆらゆらと揺れているのだ。

「この間、魔女の店に行ったのよね」

「おお、私に紹介してくれた店だな」

「そう、そこの店員と話しをしてね」

 幸せについて、話したのだという。

「いろんな幸せがあるんだなあって。住処に帰ってからもいろいろ考えていたら、実は私にとって一番楽しいのは恋だなって思ったのよ」

 一人は寂しい。

 友達はいるし、騒ぐのも楽しい。けれど、住処に戻れば一人きりだ。少し前までは、そこには愛しい人がいて、いつも彼女にわくわくする気持ちをくれた。

 あの感覚は、何年たっても同族からは得られない。

「あの人のことはずっと忘れられないだろうけれど、だからといって新しい恋をしてはいけないってことはないでしょう」

「前向きだなあ。羨ましいよ」

 男も妻を亡くしてから長い間独り身だ。男と同族のものは昔に比べ随分減ってきていて、この辺りには若い夫婦がいるだけである。魔物の中でも特に小さい彼らは、多種族と交わることも難しい。どんなに恋がしたいと思ったとしても、そもそも相手がいないのだ。

 もっとも、この年になって、いまさら新たな伴侶を得ようとは思わなかったが。

「旅にでも、出てみようかなあ。あ、でも、今国境あたりは物騒なんだっけ」

 目の前の女が、最近噂の国境あたりに出没する魔獣に負けるとは思わないが、しなしなと体をくねらせてそう主張する姿に、反論は言わないことにした。後が怖そうだ。

「あなたも暇なら、一緒にいかない?」

 女の誘いは魅力的でもあった。彼は、遠いところに旅に出たことはないのだ。

「そうだなあ。それもいいかもしれないな」

 旅という言葉に、心惹かれるような気がして、男はそう答えたのだった。



     *         *



 空から降り注ぐ日の光が、女の白い髪を彩っていた。


 その糸車は、普段よく見られる物よりも、ずいぶんと小さかった。

 危なっかしい状態で女の膝の上にのせられているにも関わらず傾いたり落ちたりしないのが不思議なほどだ。女は細い指先で器用に糸車を操りながら、白く美しい糸を紡いでいく。

 そういえば、魔女に渡した糸は、どうなったのだろうか。

 以前頼み事をした森に住む魔女のことを思い浮かべる。彼女は、報酬に金や宝石は求めなかった。代わりに女が紡いだ糸が欲しいと言ったのだから、本当に変わった魔女だ。

 それとも、魔女はあんなふうにおかしな性格なのだろうか。

 魔族としては力が弱いせいで、用事がなければ住処から出ない女は、あれが初めて出会った魔女だったから、他と比較することもできない。

 だが、あの魔女ならば、何かおもしろいものを作っているに違いない。

 また、あの店を訪ねてみようか。

 そんなことを思い、女は魔女の住む森の方向を見た。



     *         *



 青い空を見上げて、伸びをする。


「今日もいい天気」

 晴れやかな顔を浮かべ、柚那は洗濯物の入ったかごを置き、伸びをした。

 久しぶりの晴れで、寒さも緩み、風が気持ちいい。

 今日は洗濯物もよく乾くだろう。

 そう思って、籠を抱え直そうとした時だった。

 勢いよく扉が開いて、子供たちが飛び出してくる。

「こら、今日は神官様が来る日でしょ! あんたたちどこ行くの!」

「まじょのもり!」

 下の子が叫ぶ。

「今日は晴れたから、めずらしい果物を取りに行くんだ」

 上の子が楽しそうに言う。

 確かに、このところ雨か雪が続いていたから、子供たちは外で遊ぶことも少なかった。

 家の中で騒ぐたびに、両親や祖父母に怒られ、欲求不満な状態なのも知っていた。

 けれども、神官様がやってくるのは、数日に一度。一回さぼれば、次の時に皆についていけなくて苦労するのは子供たちなのだ。その大変さは、経験上、柚那もよくわかっている。

「べんきょう、きらいだもん」

「キライだもん」

 二人して、声をそろえじっとこっちを眺めている顔は何かいいたげだった・

「かーちゃんだって、べんきょうキライだったくせに! じーちゃんが、この間言ってたぞ。僕ら、かーちゃんの小さい頃にそっくりだって」

 なんてことを言うんだ!と叫びそうになるのを、柚那はぐっとこらえる。

 確かに事実だが、それを子供たちには言わないでと、あれほど頼んでいたのに。

 呆然としているうちに、子供たちは動き出す。

「ああ、もう! 待ちなさい」

 慌てておいかけようとして、魔女の森に向かって走り出した子供たちに、自分たちの幼い頃が重なって、柚那はため息をついた。

 彼らと同じくらいの年の頃、柚那は勉強が嫌で、よく森へ逃げ出していた。

 そこには、今よりも若い雫と、もう一人年老いた魔女がいて、あきれたように苦笑しながらも彼女を店に招き入れてくれた。

 おそらく、子供たちも、森で遊んだ後、迷いなく魔女の店に行くのだろう。

 今なら、いつも恐い顔で怒っていた母親の心境もよくわかる。

 きっと母親も、最低限のことは勉強してほしいと願っていたのだろう。

 仕方ない。

 洗濯物を干し終わる間くらいは、遊ぶ時間をあげよう。本当に久々の晴れなのだ。柚那だって、子供の頃だったら、母親の言うことなど聞かずに飛び出していったはずである。

 一仕事終えたら、あの頃の自分の母親と同じように、子供たちを探しに森へと行こう。

 母親をなぞるように子供たちを叱るのを、幼なじみの多紀と、小さい頃から柚那のことを知っている雫は、あきれたように笑いながら、それでも子供たちに勉強するように、一緒に説得してくれるに違いない。

 どれだけ魔女が入れ替わっても、それだけは変わらないのだ。



     *         *



 それぞれの場所で、空を見上げて――彼らは皆、小さな森のことを思った。

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