12.しあわせ
「幸せって、なんだって思う?」
昼下がりの店内で、いきなり客がそう言った。
しばらく降り続いた雪が止み、今日は穏やかな日差しが森を覆っている、そんな時間だった。
客が望む通りにいくつかの薬を並べていた多紀は、返す言葉が思い浮かばず、まじまじと向かい合う女性を見つめる。
彼女の目は真剣だった。
まっすぐに多紀を見つめ返し、彼女の返事を待っている。
困った、と多紀は思った。
適当にごまかすには、女性は思い詰めているようにも見えるし、かといって、正解の答えがある問いでもない。
そもそも、幸せに定義などあるのか。
「ええと、おいしいものを食べること、とか?」
結局、気の利いた言葉一つ思いつかないままそう答えてしまうが、それを聞いた彼女は笑い出した。
「ああ、そうねえ。そういうのもありかも」
体を折り曲げて笑い続ける彼女に、先ほどまでの悲壮感はない。
いつもの陽気で妖艶なとびきりの美女―――に見える魔物だ。
肉感的な体も、情熱的な赤い目も、人間そのものにしか見えないが。
「どうしていきなりそんなことを?」
魔物がいきなり幸せについて人間に問うというのも不思議な話だ。魔物と人間の価値観は違う。多紀が幸せだと思う気持ちと、目の前の彼女が感じる幸せは、当然違う。だから、互いに幸せについて語り合っても、平行線でしかないはずなのだ。それでも聞きたがるということは、単なる好奇心かもしれない。彼女は意外に探求心があるのだ。
「2か月前のことなんだけどね。死んじゃったのよ、恋人が」
ため息とともにはき出したその言葉に、多紀は驚く。そういえば、彼女には長年連れ添った相手がいた。多紀自身は会ったことはないが、雫によるとその相手は人間ということだった。魔物と人間が婚姻関係を結んだり、恋したりということは珍しくはないが、それほど長続きはしない。それは、種族が違うというだけではなく、寿命そのものに差があるからだ。人間と違い、魔物の寿命は様々だ。長いものもいれば、極端に短いものもいる。見た目に老いがない魔物もいれば、早く老いた姿になるものもいた。そのことや考え方の違いから、うまくいかないことが多いのだが、中には、目の前の魔物のようにどちらかが死ぬまで添い遂げるものもいる。
「それは。その、お悔やみ申し上げます」
もしかすると彼女が『幸せ』について聞いてきたのは、そのことと関係があるのかもしれない。彼女は人型が取れる魔物だ。元の姿はあまり見せられるものではないというが、は虫類に似た容姿を持っているらしい。そんな彼女の同族は、あまり感情の起伏がなく、どちらかといえば人や他の魔物とも距離を置く、引きこもり体質のものが多い。その中にあって、変わり種といわれる彼女は、人も魔物も魔獣も大好きだと公言してはばからないし、親しくなるべく行動もしている。
「結構長生きだったし、老衰だったんだけど、なんだか、妙にしんみりしちゃってね」
その男とのつきあいは、今までで一番長かったのだという。
だからこそ、いなくなってしまって、どこか心にぽっかりと穴が開いてしまったかのような気分になっているらしい。
「自分でもわかっているんだけどね、いい加減人間に惚れるのはやめようと思うんだけど」
「同族の方との出会いはないんでしょうか」
彼女の寿命は、多紀たちよりもずっと長い。できることならば、同族同士で添い遂げるのが一番いいのだろう。
だが。
「あら、多紀は知らないの? 人間の方が情熱的なのよ」
「え」
「いろんな意味でね。多紀だって、恋くらいしたことあるでしょう」
それは、ないわけではない。過去には一応恋人だっていた。
だが、特に情熱的だとは思わなかった。ごく普通に出会って、ごく普通に好きになって、結局は別れてしまったけれど、情熱的に口説かれた記憶はない。からかわれたことなら、いくらでもあるが。
「ほかの魔物のことは知らないけれど、少なくとも同族の男は、愛の言葉なんかささやかないし、夜だって」
そこで意味ありげに彼女は笑う。
その先の言葉の意味を正確に読み取って、多紀は頬を赤く染めた。確かに、そういうことはあるのかもしれない、夜には。
「とにかくね。人間に恋するのは、そんなふうに確実に言葉と態度をくれるからなの」
どこか陶然とした表情だった。
赤い瞳も、潤んでいる。妙にそれが色っぽくて、多紀の方がどきどきしてしまった。
「でもね、別に恋人や夫だけがほしいってわけじゃないのよ。たとえば、友達とか、家族とか。一緒に気持ちを分かち合える相手がいいの」
一人はやっぱり寂しいわ、と彼女は言うのだ。
魔物は本来、縄張り意識も強いはずなのに、やはり彼女は変わっている。そうでなければ、こんな場所にある魔女の森にやってきて、しかも常連客になどなるはずがない。
人嫌いの魔物は、ここを訪れても、碌に話もせずに帰っていくのだから。
「いつか出会えるかしらね。そういう幸せを共有できる同族が。雫と多紀なんて、ちょっとあこがれるわね」
「私と雫さんは、ただの同居人ですよ?」
「でも、楽しそうだし、幸せそうに見えるのよ」
そうだろうか。いつもお互いが言いたいことを言っているし、一日に一回は多紀が雫に説教をしたり、文句を言ったり、そんなことの繰り返しだ。
ただ、不幸せではないと思う。
時間に追われることもないし、好きなことを好きなようにもできる。それになにより一人きりは苦手だから、誰かが側にいる方が多紀は落ち着くのだ。
それを幸せだというのなら、そうなのかもしれない。わかりにくく、気付きにくいけれども。
「ううん、雫だけじゃない。ここに住んでいた魔女は、みんなそう。代替わりを何度か見たけれど、そこだけは同じなのよねえ」
考えてこんでいた多紀に向かって笑いかける女性は、遠い昔を懐かしむように目を細めた。多紀も同じように、かつてのこの店を思い浮かべる。
彼女が小さな頃、ここには、年老いた魔女とまだ若い雫が二人で住んでいた。
幼い彼女の記憶にある先代の魔女は、穏やかでいつも笑っていて、でも子供たちが悪いいたずらや危ないことをすると本気で怒った。両親よりも怖かったが、それでも子供たちがその魔女を好きだったのは、彼女がいつも子供たちと真剣に向き合ってくれたからだ。
暇な時は、お菓子を子供たちに振る舞い、森のことや世界のこと、村の大人たちが知らないようなことをたくさん教えてくれた。
あの時見ていた老婆は幸せそうだった。ひょっとすると、子供たちには見せない顔もあったのかもしれないが、それでも、子供たちは年老いた魔女が笑うのを見るのが好きだったのだ。
反対に雫はどうだろう。見た目は幸せを満喫しているようには見えないし、毎日振り回されているのは多紀だけれど、それでも、不幸には見えないと思う。
「魔女の価値観とか、そういうのはわかりません。だから、雫さんがどう思っているかはわからないけれど、私は楽しいですよ。というか、刺激的です」
「ああ、わかるわかる。魔女って、時々こっちがびっくりすることをやってのけるからね」
魔物も人のことは言えないはずなのだが、目の前の彼女はそれをわかっているのだろうか。表情からすれば、わかって言っているのかもしれない。
「でも、雫は笑っているからね、やっぱり幸せなんだと思う。魔女は感情の起伏が少ないし人との関わりを避けるから、笑顔なんて、滅多に浮かべないし」
「他の魔女に会ったことがあるんですか?」
「これでも、多紀がびっくりするくらいには長生きしているしね」
見た目は二十代前半にしか見えないが、実際の彼女は200年以上生きているらしい。この店の常連客の中でも、一番の古株なのだ。
「魔女はだいたい変わり者が多いけれど、嫌いな人間の前では、不機嫌であることを隠さないから」
それについては、わかるような気がした。
人当たりがいいように見えて、雫は好き嫌いがはっきりしている。あからさまな態度はさすがに見せないが、それでも、いつも身近にいる多紀には、なんとなくわかった。
「もちろん、私だってそんなこと言えないんだけどね。変わり者はお互い様だもの」
楽しげな笑いが、店内に響く。
つられたように多紀が笑うと、彼女が意外そうに目を丸めた。
「笑っているけれど、こんな変わり者と平気で話をしているあなたも、十分同類よ」
「そんな」
困ったような顔をしてみせるが、もちろん多紀だって本気でそう思っているわけではない。
こうやって彼女と話していることは、嫌ではないのだ。
それは、彼女が魔物でもそうでなくとも変わらないことなのだろう。
「私、こうやってお客さんと話す時も幸せかもしれません」
「あら、それって、私の質問の答え?」
そうなのかもしれない。
でも、それはたったひとつの正解の答えではなかった。
「たくさんあるはずの答えの、ひとつです」
その言葉に、目の前の女性の目が輝く。
「そうよねえ、そのとおりよね。幸せがひとつだけなんて、そもそもおかしな話だもの」
「でしょう?」
「だったら、こうやって、代々の魔女とそれに関わる人と親交を深めるこの時間も、幸せのひとつと数えるべきかもね。多紀と話すのは、私だって楽しいから」
とびきりの笑顔は、最初の憂い顔とも、途中で見せたいつもの笑顔とも違うものだった。自分の中で、何か答えを見つけた顔とでもいうべきなのか。
見ているこちらまで、どこか暖かくなってくる表情だ。
だから、多紀が『また来てくださいね』と言えば、彼女も迷うことなく『もちろん』と答えてくれるのだろう。
そして、最近の雫の自信作だという最新の薬を手にすると、彼女は晴れ晴れとした顔を浮かべる。
「さてと、薬も買ったことだし、帰って新たな幸せを見つけようかな。いつまでもくよくよしていたら、死んだあの人に怒られそうだもの」
そういうと、変わり者の魔物は、足取りも軽く店から出ていったのだった。