201号室のマドンナ
朝、目覚めると夕方の五時だった。既に朝ではなかった。
新聞受けに朝刊を取りに行くと、ちょうどバイトに出かけようとする201号室の三田さんに出くわした。
「おはようございます。」
寝癖を直しながら僕が言うと三田さんは笑って、
「こんばんは。」
と返した。
三田さんはいつもボロボロのジーンズと、ハードロック系の黒のTシャツを着ていた。頭を金髪に染め、少し派手な印象の女性ではあったが、それでも独身男の多いこのボロアパートの中で、彼女はマドンナ的存在であった。その見た目とは裏腹に、彼女はとても礼儀正しい女性で、どの部屋の住人ともすれ違うたびに気持ちのよい挨拶をくれた。年齢は正確な所は分からないが多分二十歳過ぎくらいだろうか。
彼女に恋人が居る事も、住人達のほとんどは知っていた。たまに夜一緒に帰ってくる、ギターを持ったバンドマン風の長髪の若い男。嫉妬心が無かったと言えば嘘になるが、僕を含めた住人達はそれよりも、その男が彼女を泣かせるような悪い男じゃない事を祈っていた。彼女自身は気付いていなかったと思うが、他の住人達にとって彼女は、心の恋人であると同時に心の妹のような存在でもあったのだ。
僕たちの住んでいたアパートはかなり年季の入った建物で、壁も床も薄い。彼女の住む201号室は僕の部屋、101号室の真上にあった。彼氏が部屋に遊びにきている時、二人の話し声は別に聞き耳を立てずとも階下の僕の部屋までうっすらと聞こえてきた。興味はあったが、なんだか彼女をけがすような申し訳ない気持ちの方が強く、僕はそういう時にはヘッドフォンで音楽を聴きながらやり過ごす事に決めていた。一度この事を、202号室の住人で昔なじみの田中という男に話したとき、田中は笑ってこう言った。
「まだまだ甘いな、松山。俺なんかな、バンド男が来てる時は外出する事に決めてるぜ。」
ただの隣人にこの気の使い様。そんな風に三田さんはこのアパートのマドンナで、僕らはお目出度いファンクラブの会員のようなものだった。
蒸し暑い夏が過ぎて、木々が秋色に染まり始めた頃だった。仕事を終えた僕が、部屋で夕食のインスタント焼きそばを作っているとき、突然ドアを叩く音がした。ドアを開けて僕は驚いた。
「すいません、こんな遅くに。」
そう言って立っていたのは、201号室のマドンナ、三田さんだったのだ。
「実は私、実家に戻る事になりまして……。」
「え?…いつですか?」
「明後日の日曜日、引っ越しなんです。」
彼女はそう話しながら、持っていたスポーツバッグを僕に差し出した。中を見ると、そこには一杯のCDが詰まっていた。
「全部実家に持って帰ると重いんで、もし欲しい物があったらどれでも貰って下さい。」
全然名前も知らない洋楽のバンドのCDばかりで、正直僕には縁のなさそうな物ばかりだったが、僕はジャケットから中身を想像しつつ、激しすぎないだろうと思われるものを二、三枚選んで譲ってもらう事にした。
「他の部屋の人にはあげたの?」
「あ、はい。松山さんが最後です。」
それを聞いて少しがっかりした。一番後回しだったとは。僕の表情からそれを察したのか、三田さんは、
「あ、でも、松山さん、あまりこういう音楽に興味ないかなって思ったから……。」
と、フォローを入れた。
「あと、これ、本当に邪魔になるだけかもなんですけど……。」
彼女はそう言って、もう一枚CDを差し出した。未開封のインディーズのCD。中央に映っているのは三田さん自身だった。
「こないだ解散しちゃった、私のバンドのCDなんです。いっぱいあるんですけど……もう捨てちゃうだけなんで、よかったら記念に貰って下さい。」
彼女の隣に映っているギタリストが、例の男だという事にも僕は気付いていた。バンドを解散して実家に戻っちゃうのは、彼氏と別れちゃったからかい?そう僕は彼女に聞きたかったが、それを言葉に出す勇気はとても無かった。
「お金、払うよ。」
と、僕は言った。彼女はそれを拒んだ。
「いいんです聴いていただければ。無駄にならなかったら、それで。」
日曜日、引っ越し屋の小さなトラックが彼女の荷物を積み終え、出発を待っていた。僕を含めた何人かの住人は部屋を出て、彼女にお別れの言葉をかけた。彼女は最後まで笑顔で、そして礼儀正しかった。実家に帰っていく彼女が頭を黒髪に戻している事に僕らは驚き、そして少し胸を痛めた。
無人になった201号室の下で、僕はいつものようにヘッドフォンをかぶる。彼女の音楽は、やはり僕とは縁遠いジャンルのものであったが、その精一杯の歌声には、彼女の青春時代が目一杯詰まっている気がして、なんだか切なかった。
実家に帰った彼女が、その後どうなったのかは知らない。就職したとか、お見合いして結婚したとかの噂が立ったが、真偽のほどは確かめようもない。
あれから三年経ったが、僕は今でも時々CDを取り出して彼女の歌声を聴いている。