雲の上の測量士
祖父の器械は、黒い丸太の三歩手前で鳴きはじめた。
クララは足を止め、背中のケースを岩の上に下ろす。留め金が凍っている。親指の腹で二度こじると、蓋が持ち上がった。真鍮の筐体の内側で、感応歯車が歯を送っていた。
一秒に一度。数歩進むごとに、間隔が詰まっていく。懐中時計の秒針に合わせて数える。三度になった。
吹雪は横から来る。雪は黒い岩肌に積もらず、地面と平行に流れて、背後の闇へ消えていった。
三日、谷の底へ降りる道を歩いてきた。昼と夜の区別は、二日目になくなった。鼻の奥が凍り、息を吸うたびに鉄の味がする。
丸太は道を塞いでいた。膝の高さ。霜をかぶった表面に、削られた溝が残っている。
灰の麓。羊皮紙の地図では、同じ村が別の名で記されていた。ル・シエル。
余白に、祖父の字で訳が添えてある。空。 丸太の側面、風の当たらない面に、刻みがひとつ。三角形の中に点。三角点の記号だ。祖父が手帳の隅に、三十年打ち続けた符号。
クララは手袋を外し、指の腹でなぞった。溝の底は、まだ鋭い。コンパスを掌に載せる。
針は北を向いている。丸太を跨いだ。足裏が岩に着くと同時に、針は北を捨てた。回りはじめ、止まらない。
膝をついて水平器の蓋を外す。水銀の球は盤の中央に落ち着くはずだった。縁へ寄っている。目盛りは三十度。下げ振りの糸を垂らすと、錘は真下を向いて静止した。
十歩進み、もう一度やる。三十度。さらに十歩。三十度。傾きは、どこまで行っても変わらなかった。
「重力は正しい」声に出して言った。「狂っているのは座標だ」 祖父がよく言っていた。
二つの物差しが食い違うときは、物差しではなく、その間にあるものを疑え。
振り返ると、来た道は雪に埋もれていた。 唇が震えている。寒さのせいにして、ケースを担ぎ直した。
霧の底に、低い屋根の列が見えた。煙突の煙が、真横にちぎれている。窓の灯りが五つ滲み、近づくにつれて、ひとつずつ消えた。最後に残ったのは、宿の灯りだけ。
『三頭の雄鶏亭』。看板では、三羽の雄鶏が別々の方角を向いていた。真ん中の一羽は、塗料が剥げて目を失っている。
扉を押すと、暖炉の火が横に見えた。ホールには十二人ほどの客。全員が下を向き、スープを啜っている。
音がしない。匙は椀の縁に触れない。暖炉には、指三本ほどの細い薪が二本。壁板の継ぎ目から入る風が、蝋燭の炎を一方向に倒している。
隅の老婆は、椀を両手で包み、湯気に顔を寄せていた。食べるより先に、熱を吸っている。
壁には板の札が三十枚ほど掛かっていた。匙を椀に触れさせない。北に背を向けない。薪は一晩に二本。どれも、同じ手の字だ。
視線が集まった。十二人分が、同じ瞬間に。次の瞬間には、すべてが椀へ戻っている。
給仕の少年が、盆を抱えて駆けてきた。十二か、そのくらい。痩せていて、左の手首に帯状の古い痣がある。
「外套を、お預かりします」
声は、喉の手前で終わった。 クララは外套を渡さない。
「温かいスープをお願いします。それと、明日、城へ向かうために測量の許可を取りたいんです。手続きを教えてください」
測量、という語で、十二本の匙が宙に留まった。
宿主がカウンターの奥から出てくる。さっきから同じ皿を拭いていた男だ。布巾を握る手の甲に、骨が浮いていた。
「許可とは何か、お嬢さん。許可は求めるものじゃない。与えられたと仮定して、拝受するものだ」
「仮定、ですか」
「そうだ」
「私は土地を測るために申請したいだけです。仮定は必要ありません」
宿主は返事の代わりに、皿を拭いた。拭き終えた皿を、また拭いた。少年が椀を置きながら、耳のそばで言う。
「測るって、言っちゃだめだ。ここでは悪いことなんだ。城を疑うことになるから」
椀の中身は、麦が十粒ほど浮いた灰色の湯。椀の下に、硬いパンの端が一切れ挟まっている。
少年は目を合わせなかった。
クララは匙を取る。縁に当てずに飲むのは、難しくない。訊くはずの名前が、もう一つあった。この部屋では、訊かないことにした。
食事が終わると、全員が立ち上がり、北へ向いて頭を下げた。三秒。座る。誰も、合図をしなかった。 三秒のあいだ、立っていなかったのは一人だけだった。
クララは、自分がまだ椅子にいると気づく。戸口に、二人の男が立っていた。
「執務長のヴォルフがお呼びだ」
どの家も、戸口を北へ向けている。示し合わせたように。広場の石畳では、子どもが三人、目地を踏まないように歩いていた。
三人とも、足の置き場が同じだ。二人の男は彼女の左右を、揃った歩幅で進む。 執務所は石造りの低い建物。廊下の突き当たりに、鉄の扉がある。鍵穴の周りだけが、触れた手の脂で光っていた。
応接室の中央に、オーク材のテーブルが据えてある。向こう側に、大柄な男が座っていた。
角眼鏡の奥の目は、瞬きをしない。卓の上に、白磁の湯飲み。茶は冷めきって、表面に膜が張っている。
右手は卓の上に、左手は卓の下にあった。背後の棚には、背表紙の揃った帳面が四十冊。年号が一冊ごとに一つ進み、最後の一冊だけが薄い。
「その機械は何だ」
クララはケースをテーブルに置いた。
「三位一体型精密経緯儀、百八十四号。角度と距離を測ります」
男の視線が、真鍮の銘板で動かなくなる。数字を読む間より、少し長く。
「必要ない。この村の距離は、指示書にすべて記してある。君の機械が指示書と違う数を出したなら、間違っているのは機械か、君自身だ」
「どちらも間違っていなかったら」
「そういう場合はない」
「数は一つでいい。二つあれば、人は選ぶ。選べば迷う。迷えば、冬を越せん」
引き出しから、一枚の紙が出てきた。滞在許可の申請資格を審査するための、予備申請書。欄は三つ。申請者の資格。資格の根拠。根拠を確認する者の氏名。三つ目には、すでにヴォルフと記されている。
「確認者の欄に、あなたの名前があります」
「そうだ」
「私が何を書いても、確認するのはあなたになる」
「資格とは、そういうものだ」
クララはインク壺の蓋を外し、閉め、また外した。三度目で、ペンを取った。書くふりをして、襟の内側から、小指の爪ほどの分光レンズを抜く。紙の上にかざすと、レンズの面に、ヴォルフの背後の壁が映った。
暖炉は彼の右手前。影は左奥へ短く倒れるはずなのに、壁の影は真上へ伸びていた。梁を越え、天井を這い、針の細さで消えている。レンズの中では、影の頭のまわりに干渉縞が詰まり、年輪の幅で並んでいた。 窓の外を、夜警が通る。角灯に照らされた男の影が、塀を登り、屋根を越えて、空へ抜けた。
「いくつだ」
「十四です」
「親は」
「いません」
ヴォルフはうなずいた。同情の仕草には見えない。確認の仕草に見えた。
「書きなさい。朝までに。それまでは宿から出るな」
廊下を戻るとき、鉄の扉の前を通った。円筒錠。鍵穴の形から、ピンの数は見当がつく。六本。 宿の部屋に、カーテンはなかった。窓の外は、闇の代わりに霧が詰まっている。
朝まで、予備申請書の三つ目の欄を見ていた。ヴォルフ。ほかの二つは、書かなかった。
夜が明けると、階下で音が順に鳴った。井戸の綱。薪割り。扉の閂。間隔が、どれも等しい。
クララは窓を開けた。霧が部屋に入ってくる。
卓の予備申請書は、三つ目の欄だけが埋まっている。
雲が薄れたのは、そのあとだった。死雲の裂け目に、城の先端が現れる。黒い鉄の針を空へ突き立てたような影。
広場にいた者は、一人残らず膝を折った。桶を持つ男は桶を置き、パン籠を提げた女も、赤ん坊を抱いた老婆も、立っていた場所でそのまま石畳に跪く。
軒先の松明は、朝になっても消されていない。宿の戸口で、膝が石に当たる音がした。井戸のそばでは、ヴォルフが最初に膝をついていた。祈りのあいだ、彼の目は雲を見ていない。跪く人々の頭を、端から数えていた。
クララは広場の北の端に三脚を据える。
脚を石畳の目地に噛ませ、水平を出す。水銀は縁へ寄ったまま。補正ネジを回して、三十度の傾きを打ち消した。基準点A。城の先端に、望遠のレンズを向ける。仰角四十五度。石畳の一辺を器械で測り、巻尺と照らす。差はない。器械は正しい。
隣で膝を折った白髪の男が、クララの袖を引いた。
「膝をつけ。立っていると、遠くまで見えすぎる」
クララは三脚の脚を握ったまま立っていた。 歯車は一秒に六度、打っていた。
祈りが終わり、人々が立ち上がる。桶を拾い、歩きはじめる。
遠巻きに足を止めて、彼女を見る者がいた。誰も口をきかない。三脚の脚が石畳を擦ると、数人が後ずさる。歯車は三度に落ちた。
クララは測量帳に書く。祈り、歪率六。平常、三。 給水塔は、崖に背を向ける方向へ百メートル。
巻尺を引いて基線を確かめる。百メートルちょうど。三脚を担いで歩き、塔の根元に据え直した。
仰角、六十度。 離れたのに、城は高くなっている。A点に戻って、もう一度測る。四十五度。塔に戻る。六十度。四度繰り返して、四度とも同じだった。
三角形を解く。基線百メートル、角は四十五度と六十度。高さは距離に等しい。同じ高さは、距離に百を足した値の一・七三二倍に等しい。解けば、城までの距離はマイナス二百三十六・六。丸めて、マイナス二百三十七メートル。
もう一度やる。同じ。三度目も、符号は変わらなかった。高さにも、同じ符号がついている。計算の上で、城は彼女の背後の、地面の下にあった。
マイナスの記号に、鉛筆の先を置く。消さなかった。消せば、数字のほうが間違っていることになる。数字は、間違っていない。
「自然がやっていることじゃない」
クララは言った。
「人がやっている」
隣に誰かが立っている。給仕の少年だった。いつからいたのか、分からない。
「マルク」
そう言って、少年は測量帳を覗き込んだ。
「マイナスって、何」
「ゼロの、反対側の数」
「反対側に、城があるの」
「計算の上では」
少年は振り向いた。背後には、給水塔と霧しかなかった。
「城には、着けないんだ」
彼は言った。
「歩けば歩くほど、遠くなる。昔、そう言って三日歩いて、戻らなかった人がいる」
「何歩目で、遠くなると言っていた」
マルクは首を振り、三脚の先の望遠鏡を見ていた。
「覗いてもいい?」
クララは接眼レンズの位置を、少年の背丈に合わせた。彼は、城の先端に向けられた筒に目を当てる。長く覗いていた。離したとき、睫毛が濡れている。
何を見たのか、言わなかった。クララも、訊かなかった。
正午になっても、村は夕方の色をしていた。窓は閉じ、戸口は北を向き、子どもの声がしない。ヴォルフは杖をついて広場を出た。
北から南へ、村を一巡する。戻るまで三十分。朝のうちに、歩数まで数えてある。
執務保管庫の裏手は、崖の壁に接している。風が来ない。裏口の鉄扉に、円筒錠が一つ。扉の前で、歯車が四度を打った。平常より、ひとつ多い。
足音が追ってきた。マルクだった。息が上がり、頬が赤い。
「やめなよ」
少年は言う。
「入ったら、追放だ。去年、薪を一本多く焚いた人が、追放された。外で、凍った。そうじゃなければ、崖から落とされる」
「落とされた人を、見たの」
返事はない。左手が、右の肘を掴んでいた。
「あそこには、城の言葉が全部ある。触れた手は焼けるんだ」
「焼けた手は」
「……見たことは、ない」
「毎月、指示が来る」
クララは鍵穴に目を落としたまま言う。
「その指示のせいで、あなたたちは凍えている。理由を、一度でも確かめた」
「確かめちゃいけないんだ」
「私は、確かめずに怯えることができない。仕事だから」
ケースから、ダイヤルゲージの触針を取り出す。鍵穴に差し込んだ。針先がピンに当たるたび、目盛りが震える。〇・四。一・一。〇・七。〇・九。一・四。〇・二。六本。
数字の差が、そのまま鍵の歯の形になる。ピンセットの片腕を曲げて回す力をかけ、数字の順にピンを押し上げていく。
六本目は固着していた。力をかければ折れる。〇・二の差を、息を止めて押した。遠くで、杖の音がした気がした。手は止めない。
マルクは通りの角を見ていた。唇が動いている。祈りなのか、数えているのか、聞き取れない。 錠が回った。
保管庫の中は、羊皮紙と埃の匂いがした。高窓から、光が一本だけ落ちている。壁一面の棚に、革表紙の綴じが日付順に並ぶ。背表紙の金文字は、撫でた指の数だけ、薄れていた。 最も新しい一冊を抜く。
今年度、第一四半期。表紙の金は、ほかより濃い。めくると、扉の頁に、飾り文字のタイトルが一行。二枚目。何も書かれていない。三枚目も。
裏返し、光に透かす。ランプを紙の面すれすれに寄せた。筆圧の凹みがあれば、影になって浮く。影は落ちない。
祖父の手帳にも、白い頁があった。測っていない場所の印だと、彼は言った。空白は、未測の別名だと。 十年前の棚。五十年前の棚。
百年前の背表紙は、革が粉になりかけている。どの背にも、同じ高さに、指の跡が重なっていた。最も古い一冊にも。抜いてめくった。
どの束にも、文字がない。 棚の端に、斜めの書見台があった。床板が、その前でだけ、人の足の形にすり減っている。
分厚い帳面が、開いたまま載っていた。昨日付けの頁に、細い字が並ぶ。 第一の月、十九日。城は、粥の塩を減らすよう仰せである。 欄外に、数字が一つ。三十八。その隣に、もう一列。人、百二十三。 頁を遡る。
麦の数字は、一日ごとに一つずつ増えていく。二十日前は五十八。冬のはじめの頁に、二百十。人の数字も、遡るほど増えた。冬のはじめは、百四十二。
同じ日付の頁を、綴じの中に探した。何も書かれていない。 四十年、毎日一枚。計算は、頭の中で終わる。一万四千六百。ヴォルフが読んだことになっている枚数だった。
喉が乾いている。唾を飲み込もうとして、できなかった。
懐中時計を見た。入ってから、二十四分。 昨日付けの一枚と、百年前の一枚。それに数枚を、束から抜いて、外套の内側に入れた。
どれも同じだった。同じであることが、証拠になる。そのとき、鉄扉の外で、足音が止んだ。ひとつではない。松脂の匂いが、隙間から入ってきた。
広場に出ると、輪ができていた。松明が二十本ほど。炎はどれも、同じ方向に傾いている。北へ。風は南へ吹いているのに。
輪の中心に、ヴォルフが立っていた。杖は持っていない。輪の端で、マルクが俯いている。クララと目が合うことはなかった。
抜き取った白紙を束のまま、ヴォルフの胸に突きつける。
「見てください。ここに、どんな文字がありますか。寒さに耐えろ、は、どこに書いてありますか。外へ出るな、は」
ヴォルフは受け取らない。目は紙を見ず、彼女の顔を見ていた。 男の一人が、クララの手を叩いた。白紙が泥の上に散る。
人々は膝をついた。紙を一枚ずつ拾い、袖で泥を払い、胸に当てる。誰も紙を見ない。見ないまま、抱いている。
「皆さんも、一枚、手に取ってください」
クララは輪を見渡した。
「紙は紙です。字がなければ、字がない」
誰も動かなかった。前の者の背に、後ろの者が隠れる。クララは、誰かの目が一度でも紙に落ちるのを待った。誰の目も落ちなかった。三十まで数えて、やめた。
「濃淡がある」
ヴォルフの声は、広場の大きさに合わせて、大きすぎた。
「皺の深さがある。それが城主のお言葉だ。見えぬ者は、それでよい。ただし、見えぬと言うことは、許さん」
輪の中で、幼い子が母親の袖を引く。
「なにも」と言いかけた口を、母親の掌が塞いだ。力が強すぎて、子の目が見開かれた。
クララは一歩、ヴォルフに近づく。声を落とした。
「欄外の三十八は、麦の日数ですね」
角眼鏡の奥で、瞼が下りる。上がるまでに、息ひとつ分の間があった。
「この娘を倉へ」
声は、また大きくなっている。
「器械は、執務所に預かる」
マルクの肩が、跳ねた。
二人の男が、彼女の両腕を取る。ケースを持った男は、腕を体から離して運んでいた。中で歯車が、速く打っている。
倉は、村の北の外れにある。壁際に、麦袋が積んであった。数えると十一。百袋は入る広さだ。欄外の三十八が、ここでは袋の形をしている。
閂が掛かった。ケースは取り上げられ、外套の内側に、下げ振りの錘だけが残っている。真鍮の、指ほどの円錐。扉を押す。びくともしない。窓はない。
壁の継ぎ目に爪を入れても、凍った木は爪を受けつけなかった。錘を握ったまま、壁にもたれた。 壁の向こうで、誰かが唱えはじめた。
一人が二人になり、十人になる。同じ速さ、同じ調子。言葉は聞き取れない。
夜が深くなるにつれて、寒さは骨の位置を教えた。膝を抱えて座ると、目の高さに梁がある。低い梁に、刻み。三角形の中に点。丸太で見たものと同じ符号だった。
下に、日付。七の字に、横棒が引いてある。祖父の書き方だ。四年前の冬。 親指を溝に当てる。幅も深さも、ちょうど収まった。
七つの夏、祖父はクララに水平器を持たせた。水銀の球が中央に落ち着くまで、動くな、と言った。彼女は二十分、動かなかった。
祖父は隣で別の水平器を見て、何も言わなかった。四年のあいだ、毎月一日に、彼の机の水平器を覗いた。球は、いつも中央にあった。
長く当てていたせいで、指の感覚のほうが先になくなった。
扉が開く。蝶番を手で押さえて、音を殺してあった。入ってきたのはマルクだ。見覚えのあるケースを抱え、クララの前の床に置く。少年の目が梁の刻みへ動き、また戻った。何も言わない。
「見張りは、スープを取りに行った。三十分は戻らない」
「ヴォルフさんを呼んだのは、僕だ」
「知ってる」
マルクはしばらく黙った。それから言う。
「僕、見えたことがないんだ。見えない文字。ずっと。みんな、見えるって言う。見えないって言ったら、僕は一人になる」
「今は」
「今も、一人だ」
目に、涙が溜まっていた。落ちる手前で、彼はまばたきを止めている。
「でも、ここに来た」
「八つのとき、一度だけ、青いのを見たんだ。雲が切れて。すぐ閉じたけど。そのあと、裏の階段の鎖のところで見つかって、この倉に、一か月入れられた」
「その時、この倉にもう一人いた」
マルクは梁を見なかった。
「夜になると、数を数えてた。声に出して。ずっと。僕は、それを聞いて眠った」
「何の数」
「分からない。数だけ」
「その人は」
「ある朝、いなくなってた」
クララの親指が、梁の溝に深く沈んだ。 鉄の鍵が、掌に載る。冷たい。
「裏の階段の鍵。崖の。宿の鉤から取ってきた」
クララは鍵を握った。
「僕の代わりに見てきて。雲の上に、本当は何があるのか」
ケースを開け、器械を確かめる。脚を畳み、肩に担ぐ。
「戻ったら、教える」
「うん」
「数字で」
少年は笑った。唇の端が、震えている。
倉の裏手に、鎖で閉ざされた門がある。鎖は新しい。鍵は合った。一度だけ振り返ると、倉の戸口の影に、マルクが立っていた。手は上げない。上げれば、見つかる。 門の先は崖だった。崩れかけた石段が、垂直に近い角度で、雲の中へ消えている。
段の側面に、数字が彫ってあった。一メートルごとの高度標。指でなぞると、一、二、と読める。五段で、ひとつ進む計算になる。
三脚の鉄の脚を、岩の亀裂に噛ませる。腰のロープを結ぶ。三段登る。脚を抜いて、上の亀裂に噛ませ直す。また結ぶ。凍った指は、結び目を二度、取り落とした。
三十段ほど登ったところに、錆びた銘板があった。袖で擦ると、文字が出る。保守階段。関係者以外、立入を禁ず。字は深く彫られ、消えていなかった。
風は氷の粒を運び、頬を削る。手袋の革は板になった。
十を過ぎたあたりから、数字が進まなくなる。目を開けて二十段登っても、標はひとつしか動かない。上が下になった。足の下に空があり、頭の上に石がある。
左手で掴んだ岩が、右にあった。胃が、上へ落ちた。 石段の一枚が崩れた。足が空を蹴り、ロープが腰に食い込む。三脚の脚が、亀裂の中で一ミリ動いた。止まって、数える。
呼吸を。それから脚を噛ませ直し、体を引き上げた。 下から、声が昇ってきた。祈りだ。夜通し、誰かが唱えている。声が重なるたびに、背中のケースの中で、歯車の拍が速くなった。さらに速く。
やがて頭打ちになり、それ以上は速くなれない歯車は、一定の間隔で打ち続ける。
「これは壁だ」
クララは言った。声は風に取られた。
「人が積んだ壁だ」
目を閉じた。 見ていた闇は、重かった。閉じた闇は、ただの暗さだった。 拍に合わせて、足を上げる。指が段の側面を探り、数字を読む。十三。十四。数える声がする。自分の声のはずだった。祖父の声に、似ていた。
目を閉じていると、五段で標がひとつ動く。 氷が歯の間に入る。左の爪が割れた。手を替える。拍は一定のまま。足が拍に乗る。
百。百五十。腕が自分のものではなくなっても、拍は続く。祈りの声は、もう聞こえない。
二百三十四。二百三十五。二百三十六。 二百三十七。
風が止んだ。
静寂が先に来た。音が消えたと気づくより早く、耳の中が空洞になっている。 目を開ける。青だった。
閉じて、もう一度開けた。青は消えない。
雲は足の下にあり、灰色の平原が地平まで続いていた。その上に、太陽が載っている。額に光が当たる。重さのある温もり。手袋の氷が溶けて、手首へ流れた。
最後の数段を上り、石の床に膝をつく。足元の石は、灰ではなく、光を返す白だった。自分の影が、短く、真下に落ちている。上へは伸びていない。膝が笑って、立てなかった。
四つん這いのまま、息をした。肺が、氷の粒の味を吐き出す。 床は乾いている。ツタが這い、割れ目から白い小さな花が顔を出していた。
空気に匂いがあった。乾いた石と、草の。死雲の下では、嗅いだことのない匂い。
水平器を出す。水銀の球は、盤の中央にあった。傾きは、どこにもない。振り返って雲海を見下ろすと、表面が一か所だけ、すり鉢の形に沈んでいた。底に村があるのだと分かる。
城は、なかった。最初はそう見えた。
あるのは崩れた壁と、苔むした土台と、錆びた梁。壁の上に、風速計の杯が三つ、軸の先で錆びている。
雨量計の筒は割れ、中でツタが育っていた。その向こうに、尖塔が立っている。ガラスのように透けた尖塔だ。
向こうの空が見える。鳥が一羽、塔の中を横切った。
壁には触れなかった。壁が、なかった。触れられるのは、足元の床と、噴水の縁と、いくつかの柱だけ。城の一割ほどが、そこに残っていた。
透けた壁のあいだを風が抜けると、低い音が、足の裏から上がってくる。
中庭の中央に、枯れた大理石の噴水がある。
水盤の真ん中に、真鍮の装置が据えられていた。パイプが百本ほど、扇のように立ち上がり、その先で風車の羽根が一枚だけ回っている。
銘板には、風の調律者、と彫ってあった。
装置の根元に、老人が座っていた。体の半分を、装置の中へ埋めるようにして。皮膚の一部は真鍮の板に替わり、右の目はレンズだ。
胸の奥で、歯車がひとつ、五秒に一度の間隔で回っている。手に小さなネジ回しを持ち、ネジを一本、締めていた。
「あなたが、この城の主ですか」
老人は、ネジを締め終えてから答えた。
「主はいない。五百年前、ここは第七気象観測所だった。風と雨の巡りを測り、平地に報せていた。私は、その最下級の技師だ」
声は掠れていた。感情の線が、一本も通っていない。
「客は、二人目だ。その前は、数えていない」
老人は装置の脇の缶から、杯に水を汲んだ。杯は一つしかない。縁が欠けている。クララは受け取って、飲んだ。水は冷たく、喉の奥まで、まっすぐ落ちた。
「下は、雪か」
「降っています」
「匂いは」
「鉄に似ています」
老人は、杯の欠けた縁を、指でなぞった。
「それだ。思い出せなかった」
クララは外套の内側から、白紙を一枚出した。
「麓の村に、毎日、紙が届きます。指示書と呼ばれています」
「記録紙だ。風速と気圧を書き取る。三百年前にインクの供給が止まり、百年前に観測そのものが止まった。紙だけが、毎朝、一枚出る。風が持っていく。行き先は知らない。数えていたが、十万を超えたところで、やめた」
装置の脇の排出口から、ちょうど、白い舌が一枚、滑り出る。風が拾い、崖の縁を越えて、雲の下へ運んでいった。
「下の人たちは、それを読んでいます。四十年分読んでいる人がいます」
「何が書いてある」
「何も」
老人のネジ回しが止まる。レンズの目が、絞られた。
「そうか」
それだけで、彼は次のネジに手を伸ばした。パイプの一本に指を当て、ネジを四分の一回す。低音が、わずかに下がった。
「私は、ネジを締めていただけだ。緩むたびに、締めた。それで、音は鳴る」
パイプの口を、風が撫でている。足の裏に届く低い音は、一音だった。
「城が透けているのは」
クララは言った。
「なぜですか」
「見られないからだ」
老人は、透けた壁へ手を伸ばす。真鍮の指が、抵抗なく壁の中へ入った。
「観測されない世界は、薄くなる。麓の者は、風の数字を見るのをやめた。かわりに、自分の望みと恐れを見はじめた」
「恐れ」
「重い。あの者たちは、毎朝、同じ方角を見上げて、絶対の主を望んだ。その重さが、空間を曲げた。崖は伸び、近づく者は遠ざかった」
クララは分光レンズを、透けた壁にかざした。干渉縞は、一本もない。歪むのは、重いものだけだった。 ケースを開ける。歯車は、一秒に一度しか打っていない。麓では、三と六だった。
「観測する者も、観測されなければ薄くなる」
老人は右手を上げた。指の向こうの石の継ぎ目が、指を通して数えられた。 レンズが、ケースに向く。
「その器械。百八十四番か。見せてくれ」 渡すと、老人は感応歯車の位置を、迷わず指で押さえた。
「三枚目の歯が、削りすぎだ。ヨハンの癖だ」
「祖父を、知っているんですか」
「四年前の秋に来た。君と同じ階段を登って」
老人は器械を返し、レンズで噴水の縁を指した。人ひとり分だけ、苔が剥げた場所がある。
「そこに座った」
クララは縁に手を置いた。石は日に温められている。縁の下の礎石に、同じ符号が彫ってあった。
「ここで真実を知り、笑った。それから、泣いた。順番は、その通りだ」
喉が鳴った。クララは咳で、ごまかした。
「彼は言った。世界を人の妄想から解放するには、最後の観測を放たねばならない、と。ただし、放てば、気圧が下へ落ちる。村が持つかどうかを、彼は知りたがった。麓の歪みを測りに、降りていった」
「戻りませんでした」
老人は答えなかった。ネジ回しの先が、床を叩く。 クララは測量帳を開いた。
「麓の歪率です。祈りの間は六。それ以外は三」
老人はレンズを細める。
「三か」
「三、です」
「……持つ」
胸の真鍮の板に、指がかかった。板が開く。中で、拳ほどの水晶の球が回っていた。光が、球の内側で渦を巻いている。
「風の羅針盤だ」
老人は言った。
「三百年分の、正常な風が入っている。割れば、溜まった気圧の差が一度に抜ける。麓の霧は消える。この城も、持たない」
「あなたは」
「この球の延長だ。球が割れれば、私も終わる。順序の問題だ」
「どのくらいの風ですか」
「歪率三なら、毎秒二十五。瓦は持つ。六なら、四十を超える。祈りの最中なら、村は剥がれる」
「今は」
「昼だ。祈りの時刻ではない。三だ」
測量帳の新しい頁を開く。
「記録させてください。名前を」
「番号しかない。二十一」
「二十一番」クララは書いた。観測所、第七。技師、二十一番。観測、五百年。 老人の右手が、少しだけ、濃くなった。
「割るのは、私にはできない」
老人は言った。
「内側からは割れない。外から、細い先で、一点を突く者が要る」
クララは外套のポケットに手を入れた。下げ振りの錘が残っている。真鍮の円錐。指ほどの長さ。真下だけを指す先端。
「終わりにしましょう」
老人は水晶の球を両手で持ち上げ、差し出した。思ったより、軽そうだった。
クララは錘の先を、球の面に当てる。体重はかけない。ただ置いて、一ミリ引いた。髪の毛ほどの傷が一本、入る。
高い音がひとつ、鳴った。 傷が走る。 球が割れた。光ではなく、風が出た。
風は、最初に上から落ち、次に下から昇った。二つの気流が中庭の真ん中でぶつかり、すれ違う。
クララは床の継ぎ目に指を食い込ませた。爪の割れた左手が、離れない。風は彼女を、持ち上げなかった。 パイプが一斉に鳴る。
三百年分の風が通り抜けた。和音になる前に、音は空へ抜けていく。 城が砂になる。尖塔の先から、ガラスの壁が粒になって流れ、青の中へ溶けた。光る砂だった。
老人は装置に座ったまま、風に身を預けている。レンズの目が、空を映していた。真鍮の指が、膝を一度叩く。調子を取るように。胸の歯車は、五秒目を打たなかった。
口の端の真鍮が、わずかに持ち上がっている。
次の瞬間、そこにあるのは、風だけだった。
測量帳に、一行足す。観測、終了。手袋を外して、指を数えた。十本。全部あった。下げ振りの錘の先は、丸く潰れている。
雲海に、水平線が現れた。定規で引いたような一本の線が、縦に裂ける。裂け目の底に、小さな屋根が並んでいた。
光が降りて、端から順に染めていく。灰が剥がれ、赤が出た。白い点が、そこから昇ってくる。何百枚もの紙だった。城の高さまで来ると、砂の光に混じって、見えなくなった。
階段は、ただの階段だった。一晩かけて上った段を、下りは四十分で終えた。標の数字は、数字でしかない。
広場は、光で満ちていた。石畳が金色に光っている。灰色だと思われていた石に、赤い筋が走っていた。屋根瓦は赤い。誰も、瓦が赤いことを知らなかった。
宿の看板の三羽の雄鶏は、金でも銀でもなく、ただの黄色だった。
戸口で宿主が、皿を日にかざしている。拭きつづけた皿の縁に、青い線が一本、入っていた。桶の氷が、縁から溶けていく。男がそれを指でつつき、濡れた指を、長く見ていた。
北の崖は、ただの崖だった。頂が、雲のない空に線を引いている。思っていたより、低い。 人々は立っていた。誰も膝をついていない。
空を見ている。どの顔も、違っていた。霧の下では、誰もが同じ灰色に見えた。日の下に、頬の赤い者と、青白い者が並んでいる。
手に白紙を持つ者が多かった。女がひとり、紙を日にかざし、透かして、裏返す。何もない。女は紙を持ったまま、そのままでいた。
別の女は、紙を胸に当てたまま、空を見なかった。あの白髪の男が、北へ頭を下げかけて、途中で止めた。首が、行き先を決めかねて、揺れている。
あの幼い子が、母親の掌の下から、顔を出していた。「なにも、ない」と子は言った。母親は、その口を塞がなかった。頭に、手を置いた。
ヴォルフは広場の中央で、膝をついていた。杖は転がっている。角眼鏡を外した顔は、より老いて見えた。
手に一枚、紙がある。彼はそれを裏返した。四十年のあいだ一度もしなかったことを、した。 クララが近づくと、彼は見上げた。
「三十八日だ」
それだけだった。
「日が射せば、畑ができます」
クララは足元の白紙を一枚拾い、鉛筆を一本添えて、彼の手に置いた。
「日の出と日没を。毎日、同じ場所で。字は、自分の字で」
ヴォルフは鉛筆を握った。握ったまま、紙を見ている。
村の南の端に、黒い丸太がある。その上に、マルクが立っていた。両腕を広げ、揺れる足場を、体で押さえている。
西の空に、雪を載せた山が三つ、四つ、連なっていた。誰も、あの山を見たことがない。
少年は山を指さし、数えていた。声に出して。三つ、四つ、五つ。数えるたびに、山がひとつ増える。風が、その声を持っていった。
クララが近づくと、数えるのをやめた。
「上は」
「青かった」
「それだけ」
「測ってきた。二百三十七メートル」
「それって、どのくらい」
「広場の端から端までの、二倍と少し」
マルクは口を開け、閉じた。それから笑いだした。
丸太が揺れる。彼は丸太から降り、尻もちをついて、まだ笑っていた。 クララは丸太の側面に膝をついた。
祖父の刻みの隣に、小刀の先で、同じ符号を彫る。深さは同じにした。
立ち上がり、新しい測量帳の第一頁に、定規を当てる。ずれのない線を一本。その上に、書いた。
起点、ル・シエル。気象、快晴。視界、制限なし。
この先の境界線は、まだどこにも引かれていない。 線の下の頁は、白い。まだ誰も測っていない白だった。
ペンを収め、真鍮の筐体を掌で一度撫でて、肩に担ぐ。
丸太を越えた。
反対側の岩に降りても、コンパスの針は北にとどまっている。歯車は一秒に一度。それ以上は、速くならなかった。
彼女は、光のほうへ歩き出した。




