第六話 夜の街に潜む
ロキは人影も途絶えた夜の街を走っていた。
深くフードをかぶり黒髪を隠す。
それでも走れば時折髪の先がフードの内から零れ出るが、暗い景色にその髪の色はよく溶けた。
(違う、ユーリを呪ったのは俺じゃない……! いや、俺なんだけど……!)
もう誰に言い訳をしているのかさえ分からなかった。
暗い視界の中に、月光のような銀の髪を探す。
だが自分自身を媒体にして術を扱った反動で、身体が酷く怠い。
足を引きずるようにして駆け、時折建物の壁に手をついて呼吸を整えた。
(あの時、違うって言えていたら……すぐに追い掛けられていれば……)
部屋を出て行く白い背中が瞼の裏を過った。
フードの下で乾いた笑いが零れる。
「言い訳と……嘘と。後悔ばっかりだな、俺は……」
確かに黒い髪と呪術の才能は生まれ持ったものだった。
けれど性根に染み付いた卑しい根性は、言い訳のしようもなく自分自身で生み育てたものだった。
(ユーリを見付けたら、もう全部話そう。そして謝って、解呪をして、その後は……)
知らぬ間にもう一度口角が上がった。
「殺されるかもな……」
恐らくそうなる。
本人が予告した通りに。
だが、それを言葉にしても今までのように指先が恐怖で震えることはなかった。
本を買うために、紙を通して世界を見るために、金が欲しかった。
小さい隠れ家の中はあまりに孤独だったから、それに縋る他なかった。
けれど今はどうしてか、あまり心残りもないような気がした。
憧れた広い世界の内、たった一つの街しか知らないというのに。
短く息を吐いて、止めていた足をもう一度踏み出す。
直後、建物の影から伸びた腕がロキの手首を掴んだ。
「う、わっ……!?」
気怠く重い足では踏ん張りも利かず、その腕に引きずられるようにして建物の隙間の闇へと呑まれた。
次に漏らす声は口を塞いだ大きな手のひらに遮られ、上手く音にもならなかった。
「こっちから仕掛ければ、のこのこ出てくると思ったぜ」
低い声が耳元で響き、ぞっと肌が粟立った。
狭い路地を曲がった先で突き飛ばされるように手を離され、冷たい石畳の上を転がる。
見上げた先で月光が映し出したのは、あの日ユーリを呪うように依頼した男だった。
ロキの目が見開かれて動揺に揺れる。喉の奥で息が嫌な音を立てた。
「俺はアイツを呪うように依頼したはずだ。高い金まで払って。……それなのに、なんでお前があの白いのとつるんでいやがる!」
男は怒りに顔を歪めながらロキの顔面へと靴底を落とす。
ロキは咄嗟に腕で顔を庇うが、それより早く展開された光の膜が振り落とされた踵を受け止めた。
黒い髪の下で犬用の首輪が白い輝きを放つ。
「……何だそれは?」
男が怪訝そうに眉根を寄せる。
ロキは慌てて首輪に片手を添えながら這うようにして上体を起こす。
「ち、違う! 俺は言われた通りにちゃんと呪った! けど、アイツが強過ぎたせいで上手く……!」
「こんなお気に入りの証までブラ下げおいて『ちゃんと呪った』だと?」
男の腕がロキの首元へと伸びる。
それを攻撃だと認めなかったのか、今度は首輪が輝くことはなかった。
喉仏と革の首輪との間に指が差し込まれる。そのまま首輪ごと身体を持ち上げられ、息が詰まった。
犬用の首輪は人間の重さに耐えかねて僅かに軋む。
「自動展開の保護魔法。とても呪ったヤツが受け取る代物じゃあねえな」
首輪の金具が何度か小さい悲鳴を上げた後にそれは砕けた。
喉を圧迫していたものが無くなると同時に身体が再び地面へと落ちる。
そこを目掛けて飛んできた靴は、今度は何に阻まれることもなくロキの肩を蹴り上げた。
「っ、が……!」
呼吸を奪われていた反動で込み上げる咳と入り混じった声が漏れた。
顔を上げる隙もなく靴底が黒い髪を踏み付け、砂利の破片が頬に刺さり皮膚が切れる。
ほんの僅かな金属の擦れる音を追って視線だけを持ち上げると、壊れた首輪が男の服の内に押し込まれるところだった。
「……そ、れ」
「安物だろうが、この魔法付きの玩具は金になる。薄汚ねえ呪術師ごときには過ぎたモンだ」
首輪から下がるチャームが月明りに輝き、男の服の中に消えた。
咄嗟に、縋るように腕を伸ばす。
「返せ……!」
無意識に声が出た。
だがロキの声を聞くなり男の顔は苛立ちに染まり、今度はその腕を踵で踏み潰した。
「返せだと? ならお前に支払った金をまず返せ! お前のせいで余計に呪術師を一人雇う羽目になったんだ!」
「ッ、あ……!」
「これだから呪術師なんぞ信用出来ねえんだ」
体重が乗った硬い踵の下で骨が軋む。
嘘じゃない、と叫ぼうとした唇からは中途半端な悲鳴だけが漏れた。
呪術は正しく掛けた。
たとえ呪術師だろうと最低限の矜持はある。
護身のために嘘をつくことはあっても、依頼に対し手を抜いたことは一度もなかった。
だが、そう訴えたところで誰が呪術師の言葉など信じるだろうか。
そしてユーリを欺きその矜持さえ失った今、叫ぶ言葉などどこにもありはしない気がした。
「あの偉そうな冒険者さえいなけりゃ——」
激昂する声と共に、重い踵が頭へ、腹へ、そして頬へと落ちる。
どう腕で庇ったところで、痛みから逃れることなど出来なかった。
聞こえる声が遠くなり、一瞬、脳裏に銀の髪が過る。
「ごめ、なさ……」
知らぬ間に切れた唇から掠れた声が零れた。
その言葉を差し出さなければいけない人物はこの場にいないというのに、それは無意識の内に溢れて落ちた。
男の踵が引かれ、その代わり太い腕がロキの襟首を掴んで強引に身体を引き起こす。
「謝っている暇があるならもう一度奴を呪え! 次は殺すまで——」
そう叫ぶ男の背後で、月光が煌めいた。
ロキの切れた瞼が一度緩慢に瞬く。
一瞬は見間違いかと思ったそれはすぐに光の刃となり、男の肩を鋭く掠めながら地面に突き刺さり、霧散した。
「誰の話してるの?」
場に不釣り合いな、静かな声が聞こえた。
男が肩を庇いながら即座に振り返り、手を離されたロキの身体は支えを失ってもう一度地面に落ちる。
視線だけで見上げた先で、その影は髪によく似た色の月光を背負っていた。
「面白そうな話をしてるね。……実は呪いならね、僕も使えるんだよ」
「……え」
ロキの口から呆けた声が漏れた。
一歩ずつ静かな足音を連れて歩み寄るユーリの手の上で、風もないのに白い魔導書のページがひとりでに勢いよく捲られる。
やがてそれがとあるページを開いて止まり、鋭い輝きを放った瞬間、傍らの男が大きく一歩後退した。
「あああぁ——ッ!」
男の身体に浮かび上がる、光の亀裂のような紋様。
それから逃れようと男は身体中を指先で掻き、身を捩り、地面の上を転がって藻掻いた。
「ほらね。人の傷を癒す術を知っている白魔術師が、人の身体を壊せないわけないだろ」
ロキの傍らで立ち止まり男を見据えるユーリの表情は、楽しげな笑みを刻んでいた。
その顔を見上げた後、這い回る痛みに悶絶する男へとロキは視線を戻す。
(呪いじゃなくて……めちゃくちゃ怖いだけの白魔法じゃん……)
そう言葉にする余力もなく、短い息だけを吐いて、ロキは痛む身体から力を抜いた。
石畳の冷たさが、腫れた頬にほんの少し心地良かった。
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