第13段階:先生の一歩
翌日。魔導宮の広大な訓練場にて、魔法指導の時間がやってきた。
「今日は水属性だ」
「やだ」
「……」
ルシウスは、開始一秒で拒絶したフェイを見下ろし、無意識に顎に手を当てて思考を巡らせた。
(なぜ、フェイは火属性に興味を持ったのか)
彼女は「火加減」と言った。
魔法を破壊の力としてではなく、生活の延長線上にあるものとして捉えている。
ならば、机上の空論を語るよりも、生活に身近なところからまずは興味を持たせる方が、彼女にとっては良いアプローチのはずだ。
ルシウスの中で、初めて”教育者”としての論理が組み上がる。
「……そうか。なら、花の水やりでもするか?」
ルシウスが静かに提案すると、フェイの瞳が一瞬で星のように輝いた。
「お花、好き!」
魔法の黒板を消し、二人が向かったのは魔導宮に広がる美しい花園だった。
花々の手入れをしていた庭師が彼らに気付き、恭しく一礼する。
「あちらのエリアの花園は、これから水やりをする予定でございます。
閣下、お嬢様、どうかお願いいたしますね」
庭師ローデンの言葉に、フェイは元気に頷いた。
「わかった! 水やり用のホース、取ってくる!」
タタタッと走り出そうとしたフェイの背中に、ルシウスが静かに声をかける。
「必要ない」
振り返ったフェイの前で、ルシウスはすっと人差し指を天に向けた。
指の先に青い光の粒子が集い、またたく間に巨大で澄み切った”水の塊”が形成される。
そして彼が指先を僅かに動かすと、その巨大な水の塊は無数の細かな雨粒となって、花園の土へと優しく降り注いだ。
「すごい! こんな使い方できるんだ!」
フェイは目を丸くして、花を潤す美しい雨粒を見つめる。
「魔法の方がムラなく、効率的に水やりができる。……どうだ?」
ルシウスが静かに問うと、フェイは思いきり両手を上げて跳ねた。
「やりたい! ルシ、教えて!」
フェイは早速ルシウスの手解きを受けた。
しかし、彼女はすぐには花壇へ向かわなかった。
花から少し離れた場所で、手元に小さな水の塊を作り、それを雨粒にして降らせる練習を何度も繰り返している。
なぜなら、水をやり過ぎれば根が腐ってしまうからだ。
花も生きている。
灰の森で植物と共に生きてきた彼女は、命の脆さを誰よりも知っている。
一度、二度、三度、四度。
真剣な表情で、ミニマムサイズの水の塊で水量の調整を繰り返すフェイ。
(……考えたな)
その意図を正確に汲み取ったルシウスは、彼女の命に対する誠実さに密かに感心していた。
そして五度目。
フェイは恐る恐る花壇へ近付き、手元で生み出した優しい雨粒状の水を、花たちへと静かに降らせた。
水を含んだ土が深い色に変わり、花々が嬉しそうに揺れる。
「火力調整ができるようになったおかげか」
ルシウスは、その見事な魔力制御を見つめ、静かに告げた。
「悪くないな」
「やったー!!」
フェイは満面の笑みで歓声を上げた。
ルシウスはすっと片手を上げ、パチンッ、と指を鳴らした。
――ゴォォォォォッ!!
その瞬間、花園の中央で何百年も枯れ果てていた巨大な噴水から、透き通るような美しい水が一気に噴出した。
太陽の光を浴びた水しぶきが、空に鮮やかな虹を描き出す。
「綺麗……!」
噴水を見上げて感嘆の声を漏らすフェイに、ルシウスは平坦な声で言った。
「褒美だ」
その言葉を聞いた瞬間。
フェイはいきなり靴を脱ぎ捨て、噴水に向かって全力で走り出した。
ルシウスの眉が微かに動く。
「……?」
「水!」
フェイは虹の中を駆け抜け、一切の躊躇なく噴水の中へと飛び込んだ。
バシャァァァッ!!
「あぁぁぁ!!」
離れた場所で控えていたエマから、悲鳴のような声が上がる。
全身ずぶ濡れになりながら、フェイは噴水の中で水しぶきを上げて大はしゃぎしている。そして、呆然と立ち尽くすルシウスの方へ向かって、大きく手を振った。
「ルシもおいで!」
「断る」
即答する魔導王。
しかし、フェイは噴水の縁まで駆け寄ると、ルシウスの大きな手を両手でぎゅっと掴んだ。
「えいっ!」
全体重をかけた、渾身の引き寄せ。
バシャッ!!!
――神殺しの英雄。
世界最強の魔導王。
絶対的な支配者。
何百年もの彼の人生において
初めて、噴水に引きずり込まれ、頭のてっぺんから足の先まで完全にずぶ濡れになった瞬間だった。
周囲が、水を打ったようにシーンと静まり返る。
(閣下が……濡れておられる……)
補佐官カシアンは、手の中の記録用魔石を落としかけながら戦慄した。
(誰も止められない……)
庭師ローデンは、剪定バサミを握りしめたまま天を仰いだ。
(大至急、お着替えと温かいお茶をご用意いたします……)
料理長ガロンは、音もなく厨房へと踵を返した。
当のルシウスは、前髪からポタポタと水を滴らせながら、目の前のフェイを見下ろした。
フェイは悪びれる様子もなく、お腹を抱えて楽しそうにケラケラと笑っている。
「…………」
その屈託のない無邪気な笑顔を、至近距離で見つめて。
「……ふっ」
ルシウスの口から、無意識のうちに、ほんの微かな笑い声がこぼれ落ちた。
「笑った!」
フェイが指を差して嬉しそうに叫ぶ。
「笑っていない」
ルシウスは一瞬で元の鉄面皮に戻り、真顔で否定した。
「嘘ついたからお仕置き!」
フェイが両手を掲げると、上から流れてくる噴水の太い水流がぐにゃりと曲がり、ルシウスの頭上へと直撃した。
完全に滝行のような状態になる魔導王。
パチンッ。
ルシウスが再び指を鳴らすと、噴水の水がピタリと止まり、同時に二人の身体を包んでいた水分が一瞬にして蒸発し、完全に乾き切った。
ルシウスは小さく息を吐き、水滴の消えた大きな手を、フェイの頭の上にポンと乗せた。
「全く。……今日の授業はこれで終わりだ」
不器用な手つきで、その柔らかな髪を優しく撫でる。
「君の体が冷える」
世界を憂うのではなく
ただ一人の少女の風邪を心配する、あまりにも過保護で、温かい声だった。




