第6話 婚約破棄されたので、これからは全力で冬眠します
眩しい。
カーテンの隙間から差し込む光が、勝利の祝福のように感じられた。
私は今、人生最高の気分で目覚めた。
昨夜の夜会。私は確かに「お姫様抱っこ」をされ、王太子の絶叫を背に会場を後にしたのだ。
一回目の人生ではあり得なかった、強引で、けれど不思議と心地よい退場劇。
私の肌に触れるシーツの感触すら、今は誇らしく感じる。
「お嬢様! 起きていらっしゃいますか! 歴史が……歴史が動きましたわ!」
メイドのアンネが、ノックも忘れて部屋に飛び込んできた。
その手には、震えるほど豪華な装飾――王家の刻印が押された、一通の封書が握られている。
「エドワード殿下からの……婚約破棄の公式文書です! 特使の方は、お嬢様を恐れて玄関先で手紙を放り投げるようにして逃げ帰りましたわ!」
私は跳ね起きた。
……つもりだったが、リチャード様の赤い毛布が重厚すぎて、実際は「もぞり」と芋虫のように動いただけだった。
私はアンネから書状を奪い取り、中身をあらためた。
そこには、一回目の人生では決して拝めなかった、卑屈なまでの言葉が書き連ねられていた。
『クロエ・ド・アルヴェニア公爵令嬢。貴殿の至高なる魔力と、冬の嵐のような気高さの前に、私の器はあまりに小さすぎた。これまでの数々の無礼、万死に値する。つきましては、此度の婚約を白紙とし、今後、貴殿の安眠を妨げるような真似は決してせぬと、我が王家の名に懸けて誓おう』
……すごい。
これは「婚約破棄」というより、もはや「終戦協定」ではないかしら。
「安眠を妨げない」という一文を公式文書に書かせるなんて、私、どれほど殿下を怖がらせたのかしら。
(やったわ……。私の、完全勝利よ……!)
私はお布団の中で、静かに、けれど力強く拳を握りしめた。
誰にも媚びず、背筋も伸ばさず、ただ眠気に身を任せ、パジャマで過ごしただけで、自由を手に入れたのだ。
だが、安堵の余韻に浸る間もなく、廊下から地響きのような、重厚な足音が近づいてきた。
ドォォォォン!
私の部屋の扉は、もはや扉としての役割を果たしていない。
豪快に開け放たれた入り口に立っていたのは、やはりというべきか、あの熊のような巨躯のリチャード様だった。
彼は夜会の礼装ではなく、すでに旅慣れた野性味溢れる狩猟服を纏っている。
そして、その手には巨大な銀のトレイ。
載っているのは、香ばしい煙を上げる山盛りの厚切り肉料理だった。
「起きたか、氷の姫君。祝杯ならぬ、祝肉だ」
「……リチャード様。また、お肉? 今はまだ朝の八時ですけれど」
私は、低くて重みのある「鉄の声」で応えた。
自分では最大限に呆れているつもりだが、声帯が締まっているせいで「私の食欲を満足させられると思っているのか?」という挑発的な響きになってしまう。
「ヴォルガの朝は肉に始まる。昨夜、あんな無能を黙らせるために魔力を使い果たしたお前には、これでも足りないくらいだ」
彼はベッドの脇にどっしりと腰を下ろすと、慣れた手つきで肉を一口大に切り分けた。
鼻腔を突き抜ける、ガーリックと岩塩、そして炭火の香り。
(……ひえぇ、朝からこれは重い……。でも、お腹が勝手に鳴りそう……)
私の胃袋が、不器用な主人の意志を無視して、小さく「ぐぅ」と鳴った。
恥ずかしさで顔が引きつり、結果として「空腹などという低俗な欲求など、超越している」という冷徹な表情が出来上がる。
「……毒見を、してあげるわ」
「そう言うと思った。ほら、口を開けろ」
あーん、という屈辱的な、けれど抗いがたい儀式。
私は震える唇を開き、差し出された肉を一口食べた。
――っ!!
噛みしめた瞬間に溢れ出す、暴力的なまでの生命力。
肉汁が喉を通るたび、昨夜の疲れが魔法のように消え、体が芯から温まっていく。
この男、性格は強引すぎるけれど、エサの質に関しては間違いなく大陸一だ。
「気に入ったか。……クロエ、婚約破棄は正式に受理された。お前を縛る鎖はもうない。だが、お前の父はどうやら、お前を別の『道具』として売る準備を始めているぞ」
「……父様が?」
「ああ。先ほど廊下で会ったが、隣国の王族に貴様を売り込むためのリストを作っていた」
私はお布団の中で絶望した。
そうだった。王太子から解放されても、公爵令嬢である以上、父様が次の婚約者を連れてくるのは目に見えている。
「……私は、ただ、寝ていたいの。誰にも邪魔されず、一生」
私は毛布に顔を埋め、消え入るような声で本音を漏らした。
リチャード様は、不敵に、けれどどこか優しく目を細めた。
「ならば、俺の領地へ来い。ヴォルガの冬は長い。一度雪が降れば、半年は誰も家から出られなくなる。文字通り、春まで強制的に冬眠するしかないんだ」
「(……冬眠?)」
私の脳内に、黄金に輝く「安眠の地」が広がった。
半年。
半年間、誰の目も気にせず、ただお布団の中で過ごしていい。
ドレスを着る必要も、愛想笑いをする必要もない。
「お前が眠っている間、俺が魔物を狩り、最高のお前専用の肉を焼き、部屋を常に適温に暖めておいてやる。お前はただ、俺の腕の中で好きなだけ夢を見ていればいい。どうだ、悪い話じゃないだろう?」
(……なに、その天国……! リチャード様、実は神様だったの……!?)
内面の私は、感動で涙を流していた。
だが、外面の私は「ふん、物好きなことね」と言わんばかりの、傲慢な微笑(のつもりで引きつった顔)を浮かべた。
「……半年間、一歩も外に出なくていいのね?」
「ああ。俺が許可しないし、雪がお前を逃さない。誓おう」
「……悪くないわ。その『冬眠』、私が採用してあげる」
私は、精一杯の「鉄のプライド」を込めて言い放った。
リチャード様は満足げに、私の頭を大きな手でわしわしと撫でた。
「決まりだ。準備しろ。……と言いたいが、お前はその格好でいい。俺が毛布ごと運んでいく」
「えっ、あ……」
リチャード様は、私を赤い毛布ごと、まるでお米の袋でも担ぐような気軽さで、ひょいと抱え上げた。
「お嬢様、いってらっしゃいませ! 北方の伝説、楽しみにしておりますわ!」
アンネが満面の笑みで手を振っている。
廊下の向こうでは、父様が「ヴォルガ公爵との婚姻、これぞ究極の安全保障だ!」と拳を突き上げている姿が見えた。
こうして、私は王都を去ることになった。
「王太子を震え上がらせ、隣国の野獣公爵を従えて雪国へと去った氷の魔女」という、とんでもない伝説を置き土産にして。
私の二度目の人生は、馬車の心地よい揺れと、リチャード様の温かな体温に包まれながら、本格的な「ぐうたら冬眠生活」へと舵を切った。
……だが、北方の冬眠が、単なる「睡眠」ではなく。
リチャード様による「濃密すぎる餌付けと溺愛」の連続であることを、私はまだ、本当の意味では理解していなかった。
第1章完です!!
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