第5話 夜会の隅っこで寝ていたいだけなのに
夜。王宮の大広間は、数千の魔導灯と、宝石を散りばめたような貴族たちの熱気に満ちていた。
本来なら、一分一秒を惜しんで社交に励むべき場。
けれど、私は今、会場の最北端――入り口から最も遠い壁際に、彫像のように立っていた。
(……歩きたくない。一歩も、動きたくない……)
私の思考は、ただそれだけで埋め尽くされていた。
アンネが用意したドレスは、ある意味で私の理想を体現していた。
一切の無駄を削ぎ落とした、漆黒のシルクドレス。
『お嬢様の安眠を妨げぬよう、寝返り時の脚の可動域を最大化しました!』
そう言ってアンネが胸を張った通り、腰のあたりまで大胆に入ったスリットは、確かに驚くほど足さばきが良い。
コルセットもない。重いパニエもない。
今の私は、王都で一番高価なパジャマを着て、巨大なパーティー会場に立っているような気分だった。
だが、一点だけ予定外のことがあった。
私が会場に入った瞬間、さざ波が引くように音が消えたのだ。
視線が痛い。
刺さるような好奇心と恐怖が、私を貫く。
きっと、私の「だらしない(と本人は思っている)格好」に、会場中の貴族が呆れ果てているのだろう。
私は、その視線の恐怖に耐えるため、ぎゅっと唇を結び、正面を睨み据えた。
(ひえっ……、視線が怖い。早く帰って、リチャード様の毛布に包まりたい……!)
緊張がピークに達し、私の魔力が無意識に漏れ出す。
ピシッ、パキィィィィン!
私の周囲数メートルの床に、白銀の氷が結晶となって広がった。
物理的な冷気が広場を浸食し、着飾った令嬢たちが「ひっ」と短い悲鳴を上げて後退する。
「……見て。あの漆黒。王家への服従を拒む『処刑の色』よ……」
「なんて恐ろしい魔力……。あの方、微笑むことすら忘れたのね……」
コソコソという囁き声が聞こえる。
微笑むのを忘れたのではない。顔の筋肉が強張って、動かないだけなのだ。
そこへ、人だかりを割って、一人の男が現れた。
エドワード王太子だ。
彼は私の数メートル前で足を止め、凍りついた床を見て、目に見えて顔を引きつらせた。
「クロエ! その不吉な装いは何だ! 王家への忠誠を捨て、公然と反旗を翻すつもりか! これまでの無礼、今この場で釈明せよ!」
エドワードの声が上ずっている。
私は、重い瞼を必死に持ち上げた。
ダメだ。限界。
不慣れな夜会の毒気に当てられ、おまけに冷気を出し続けたせいで、急激な眠気が襲ってきた。
意識が遠のく中、私はこの茶番を終わらせるための言葉を絞り出した。
本当は「謝罪はしません。もう疲れました。婚約破棄して私を解放してください」と言いたかったのだが。
酸欠の脳が選んだのは、たった一言だった。
「……終わりに、しましょう」
地を這うような、絶対的な断絶を告げる重低音。
エドワードが、目に見えて凍りついた。
彼の目には、私が「お前の命も、王家の栄華も、すべてここで終わらせてやる」と、冷酷に死刑宣告をしたように映ったのだろう。
「き、貴様……っ、本気で私を葬るというのか! 不敬だぞ! 衛兵! この魔女を捕らえ――」
「そこまでだ、腰抜けの王子」
地響きのような声が、エドワードの言葉を真っ向から粉砕した。
会場の入り口から、黒い嵐が近づいてくる。
リチャード様だ。
彼は夜会用だというのに、やはりどこか野性的な、重厚な毛皮を羽織った礼装で現れた。
彼は迷うことなく、氷が張った私の「聖域」に踏み込んできた。
軍靴が氷を砕く音が、妙に頼もしく、小気味よく響く。
「……リチャード・ヴォルガン! 他国の公爵が、我が国の内政に首を突っ込むな!」
「内政だと? これほど美しい蕾を凍えさせ、謝罪を強要するような男に、主を名乗る資格はない。これ以上この方を汚すというなら、ヴォルガの軍勢が黙ってはおらんぞ」
リチャード様は、私の隣に立つと、迷うことなくその太く、熱い腕を私の腰に回した。
(ひゃっ……!? あったかい……あたたかい……!)
ドレスの薄い生地越しに、彼の強烈な体温が流れ込んできた。
冷え切った私の体に、リチャード様の熱が劇薬のように染み渡る。
私はその温かさに抗えず、無意識に彼の広い胸元へ、こてんと頭を預けてしまった。
会場に、今日一番の、悲鳴に近いどよめきが走る。
「……あ。……あたたかいわ。……もう、いいの」
私は、消え入るような声で漏らした。
リチャード様は、不敵に口角を上げた。
そして、エドワードに向かって、氷の刃よりも鋭い視線を投げつけた。
「聞いたか。この方は、お前の言葉ではなく、俺の熱を求めている。……エドワード殿下、この婚約、俺が買い取らせてもらおう。お前には過ぎた宝だ」
「なっ……ななな、何を――!」
「行くぞ、クロエ。お前の寝室に、さらに上質な毛皮と、焼き立ての野牛を運ばせておいた」
リチャード様は私を軽々と、それこそ羽毛のように軽々と持ち上げた。
いわゆる「お姫様抱っこ」というやつだ。
(えっ……、運ばれる……。歩かなくていいの……?)
それは、私にとって、婚約破棄よりも魅力的な救いだった。
私はリチャード様の首にしがみつき、そのまま安堵して目を閉じた。
「……おやすみなさい。……殿下」
それは、婚約者への永遠の決別。
エドワードの叫び声が遠ざかる中、私はリチャード様の「歩くベッド」のような逞しい腕の中で、幸福な夢の世界へと旅立った。
――こうして、アルヴェニアの夜会は「伝説」となった。
絶世の「鉄の令嬢」が、王太子を言葉一つで沈黙させ、隣国の野獣公爵にさらわれるように去っていったのだ。
翌朝、私の元に届いたのは。
王太子からの、恐怖に震えるインクで書かれた「婚約解消の書状」と。
リチャード様からの。
部屋を埋め尽くすほどの「最高級の朝食」と「特大の毛布」だった。




