第3話 野獣公爵
お昼過ぎ。
私は今、公爵家の自室で、ふかふかの枕を背に「至高の贅沢」を享受していた。
それは、お布団の上で食べる、最高級のミルフィーユだ。
一回目の人生なら、父様に「令嬢が寝室で食事など、はしたない!」と激怒されていただろう。
だが、今朝の父様は、まるで憑き物が落ちたような笑顔でこう言ったのだ。
『クロエ、よくぞやった。あの王太子をパジャマで追い返すとは、我がアルヴェニア家の誇りだ。しばらくは好きなだけ、その……ぐうたら、するがいい』
そう言って、王都で一番人気のパティスリーの箱を置いていった。
……どうやら、私の「寝坊」と「不敬」は、父様の中で「王家に対する高度な外交的示威行為」として完全変換されたらしい。
(勘違いって、素晴らしいわ……。おかげで大手を振って自堕落になれる)
サクサクのパイ生地と濃厚なカスタードを口に運び、私は幸せに目を細めた。
王太子から正式な婚約破棄が届けば、私の完全勝利。
あとは辺境の別荘で一生を寝て過ごすだけ。
だが、その安らぎは、物理的な「地響き」によって破られた。
ドォォォォン……!
遠くで重厚な玄関扉が閉まる音がした。
続いて、廊下を歩く、軍靴のような重い足音。
「……何事かしら。また殿下?」
私は面倒になりつつも、警戒してガウンの襟を合わせた。
バタン!
扉が開く。
そこにいたのは、王太子のエドワードではなかった。
――熊だ。
いや、熊の毛皮を纏った、岩のように巨大な男だった。
逆立った野性的な黒髪。黄金色に光る、鋭くも深い瞳。
公爵家の高い天井が低く見えるほどの長身。
彼が部屋に入った瞬間、部屋の空気が「雄」の香りと、焦げるような熱量に塗り替えられた。
「……父上が『触れると凍る氷の姫君がいる』と言うから見に来たが。なるほど、これか」
(ひ、ひえぇぇぇぇぇ……っ!? だ、誰!? 暗殺者!?)
私の内面が、音速でパニックを起こした。
父様、どうしてこんな物騒な人を私の部屋に通したの!?
恐怖のあまり、心臓が凍りつく。
それと同時に、私の魔力が過剰に反応した。
パリパリパリパリッ!
一瞬で、寝室の壁という壁が真っ白な霜に覆われた。
昨日よりも強力な冷気が、竜巻のように男に向かって吹き荒れる。
私の「生存本能」が、この男を「最大級の脅威」と見なした結果だ。
「……ほう」
男が、低く唸るような声を漏らした。
猛烈な冷気に晒されているはずなのに、彼は眉一つ動かさない。
それどころか、寒風を心地よさそうに浴びて、不敵に口角を上げた。
「素晴らしい。北方の冬を思い出す。おい、女。名を名乗れ」
男はズカズカと、凍りついた床を軍靴で踏み砕いて近づいてくる。
(来るな、来ないで! 怖い! 食べられる……!)
私は恐怖を隠そうと、必死に顔を強張らせた。
結果として、鏡の中の私は「不遜な侵入者を即座に塵にしようとする、冷酷無比な女帝」の表情になったはずだ。
「…………許可なく、立ち入らないで。……死にたいの?」
私は、奥歯のガタガタという震えを抑え、地を這うような重低音で威嚇した。
だが、男は私の目の前で足を止めると、意外な行動に出た。
くんくん、と鼻を鳴らしたのだ。
「……魔力の匂いがひどく冷えているな。お前、腹が減っているだろう?」
「……は?」
拍子抜けして、私は間抜な声を上げた。
「これほど強大な魔力を無秩序に垂れ流せば、熱量が足りなくなるのは道理。お前が震えているのは、恐怖ではなく飢えだな?」
「(違う、一兆パーセント恐怖よ!)」
心の中で叫んだが、声には出せなかった。
男は、懐から「茶色の武骨な塊」を取り出した。
「俺の領地で獲れた最高級の野生牛だ。特製の香辛料で熟成させた。これを食え。死にたくなければな」
差し出されたのは、銀の皿も通さない、素手で握られた「干し肉」だった。
あまりの非常識さに、私は絶句した。
だが。
ふわり、と。
鼻腔を突き抜けたのは、暴力的なまでに食欲をそそる、燻製の芳醇な香りと、数種類のスパイスが混ざり合った複雑な匂い。
先ほど食べた繊細なスイーツとは真逆の、生命そのもののような匂いだ。
「毒など入っていない。ほら」
男は、自分の分を豪快にかじり、咀嚼してみせた。
「……いらないわ。私は、そんな野蛮な食べ物……」
断ろうとした、その時。
ぐうぅぅぅ、と。
私の腹部から、情けない音が小さく鳴り響いた。
魔力暴走は、体力を著しく消耗させる。
私の体は、本能的に「燃料」を求めていた。
男は、不敵に笑った。
「その『鉄の仮面』、いつまで保つかな?」
私は、震える手で、その肉をひったくるように受け取った。
「そこまで言うなら、毒見をしてあげる」という冷徹な顔を作りながら。
一口、かじる。
(――っ!?)
衝撃が走った。
噛みしめるたび、凝縮された濃厚な肉の旨味が弾け、スパイスの熱が胃から全身へと広がっていく。
じわじわと、指先の冷えが解消され、力が湧いてくるのがわかった。
(おいしい。……なにこれ、信じられないくらい美味しい!)
内面の私は、尻尾を振る子犬のように大喜びしていた。
だが、外面の私はあくまで「絶対零度の女」だ。
「……悪くないわ。飢えた民に与えるなら、合格点よ」
私は、最大限に高飛車な態度で言い放った。
しかし、男――ヴォルガ公国公爵リチャードは、見たこともないほど眩しい笑顔を浮かべた。
「そうか。気に入ったか。……お前、いいな。これほど旨そうに俺の獲物を食う女は、北方にもいない」
「……え?」
「俺はリチャード・ヴォルガン・ヴォルガ。あの軟弱な王太子がお前を捨てるというなら、俺が貰い受けてもいい」
リチャードは、凍りついた私の手を、その熱く巨大な手で包み込んだ。
「俺の領地は雪深く、一日中寝ていても誰にも文句は言われない。その代わり――毎日、俺が仕留めた獲物を食え」
(えっ、それって……。温かい布団で寝ていていいし、この美味しいお肉も食べ放題ってこと……!?)
私は、混乱した。
嫌われるための態度が、なぜか「最高級のぐうたら生活プラン」を引き寄せてしまった。
私の二度目の人生は、この野獣公爵によって、予想だにしない方向へ加速し始めた。




