第2話 不敬のつもりです
素晴らしい。
人生二周目にして、私はついにこの世の「真理」に到達した。
それは――二度寝。
それも、しがらみをすべて投げ出し、昼過ぎまで貪る泥のような眠りだ。
一回目の人生では、朝五時に起きて冷たい水で顔を洗い、夜会のためにコルセットで胃を潰していた。
そんな日々が嘘のようである。
最高級の羽毛は私の全身を優しく包み込み、「もう頑張らなくていいんだよ」と囁いてくれる。
シーツのひんやりとした感触と、自分の体温で温まった布団の絶妙なコントラスト。
これを幸福と呼ばずして、何と呼ぶのか。
「……ふぁ」
大きくあくびをして、私はのそりと身を起こした。
視界に入るのは、夕方の柔らかな西日。
本来なら今頃、王太子との退屈極まりないお茶会で、彼の自慢話を「左様でございますか」と無表情に聞き流している時間だ。
それがどうだ。私は今、こうしてお布団の楽園にいる。
だが、楽園の平穏は長くは続かなかった。
ドゴォォォォン! と、寝室の扉が耳を疑うような勢いで開かれた。
「クロエ! 説明してもらおうか、貴様のその傲慢な態度の意味を!」
現れたのは、私の婚約者――エドワード王太子だった。
顔を真っ赤にして、肩で息をしている。
本来、令嬢の寝室に男性が、それも王族が許可なく踏み込むなど野蛮の極み。
背後に控える侍女のアンネが「王太子の無礼をお止めしようとしたのですが……!」とわざとらしく声を上げているが、その目は「さあ、お嬢様、やっておしまいなさい!」と輝いている。
(……ああ、うるさい。せっかくの快眠が台無しだわ)
私は、彼をじろりと見上げた。
……つもりだった。
だが、現実は残酷である。
寝起きで血圧が低く、しかも「二度とこいつに振り回されない」という固い決意のせいで、私の眼差しは一回目よりもさらに鋭く、地獄の門番のような威圧感を放っていた。
「…………なにか?」
声は、低く、冷たく。
自分でも驚くほど、相手をゴミのように見る響き。
「なにか、だと!? 私とのお茶会を欠席しておきながら、家臣たちには『誠意を見せろ』と放言したそうだな! 私に盾突くとは、公爵家は王家との絆を断つ勇気があると見える!」
エドワードが吠える。
私は面倒になり、盛大にため息をついた。
そして、わざと彼を挑発するように、寝室用の薄いシルクガウン姿のまま、ゆっくりとベッドから降りた。
着替えもせず、髪も整えず、あられもない姿で殿方の前に立つ。
貴族の女性として「終わっている」態度だ。
これなら「なんて下品な女だ! 婚約は白紙だ!」と彼の方から逃げ出すに違いない。
渾身のぐうたら・不敬アピールである。
だが、一歩踏み出した瞬間。
私の心臓が、恐怖でドクンと跳ねた。
(ひえっ……、殿下、目が血走ってる。もしかして殴られる!? 怖い、どうしよう……!)
内面の私は、小動物のように震えていた。
あまりの恐怖に、自覚のないまま私の膨大な魔力が「自衛」のために暴走する。
パキパキパキッ!
寝室の空気が一瞬で凍りつき、私の足元から床が白く結晶化した。
それは蛇のような速度でエドワードの方へと伸び、彼のブーツの先を物理的に凍らせた。
部屋の温度は一気にマイナスへ。
私の吐息が、死の宣告のように白く濁った。
「なっ……魔力、放出だと……!? 無詠唱で、この規模の冷却魔法を……!?」
エドワードが青ざめて数歩後退した。
背後の側近たちが剣に手をかけるが、その指すらも冷気に支配され、鞘から抜くことさえできない。
「近寄らないで。……寒いから」
私は、震える声を必死に抑えて言った。
本当は「怖すぎて部屋の温度を下げちゃったから、これ以上怒鳴って刺激しないで」という懇願だった。
だが、エドワードの目には、どうやら違うように映ったらしい。
「……っ、私を、脅すつもりか? その格好で現れたのは、私など着替える価値もない羽虫だと言いたいのか! この魔力……貴様、今までその牙を隠して私を嘲笑っていたのか!」
エドワードの顔から余裕が消え、根源的な恐怖が取って代わった。
「鉄の女」が、ついにその本性を現した――。彼はそう確信したようだ。
「……今日は、もう、お帰りください。私は、忙しいの。……寝るのに」
私は、視線が泳ぐのを防ぐために、彼の眉間を真っ直ぐに射抜いた。
実際は怖くて顔が引きつっているだけなのだが、これが「絶対的な捕食者の眼差し」に見えたらしい。
「くっ……。覚えておけ! 公爵家の増長、必ずや国王陛下に報告してやる!」
捨て台詞を残し、エドワードは逃げるように去っていった。
バタン! という扉の音が、今度は遠ざかる。
「…………ぷはぁっ!」
私は、崩れるようにベッドへ倒れ込んだ。
心臓が痛い。怖かった。死ぬかと思った。
「お嬢様! お見事です! あの傲慢な殿下を、ガウン一つで、しかも一歩も動かずに追い払うなんて! あんな腰抜けの顔、歴史に残すべきですわ!」
アンネが興奮気味に駆け寄ってくる。
違うのよ、アンネ。私はただ、怖くて一歩も動けなかっただけなの。
だが、結果オーライだろう。
王太子にあれだけ無礼を働いたのだ。国王陛下に報告されれば、婚約破棄は時間の問題。
あとは、首を洗って(布団の中で)寝て待つだけだ。
「よーし。また寝ましょう。婚約破棄の通知が来るまで、私は一歩も外に出ないわ」
私は再び、最高級の羽毛布団に潜り込んだ。
――しかし、その頃。
王都の門には、一台の、武骨で巨大な馬車が到着していた。
そこから降り立ったのは、熊の毛皮を纏った、岩のように屈強な大男。
ヴォルガ公国が主、リチャード・ヴォルガン・ヴォルガである。
「……ほう。この街にも、面白い女がいるようだな」
彼は、王都の空に微かに漂う「冷気」の残滓を感じ取り、不敵に口角を上げた。
北方の極寒の地を統べる彼にとって、この冷気は親しみ深く、そしてとてつもなく強大に感じられた。
「アルヴェニア公爵家の『鉄の女』。王太子を震え上がらせた氷の姫君か」
リチャードは、懐から取り出した野趣溢れる燻製肉を豪快に噛み切り、クロエの住む公爵邸へと視線を向けた。
「どれほど旨そうに食うか。……そして、どれほど温め甲斐があるか。確かめさせてもらおう」
――クロエの望む「静かなぐうたら生活」に、最強の闖入者が迫っていることに、彼女はまだ気づいていなかった。




