第1話 二度目の人生では布団から出たくない
視界が、真っ白な雪に覆われていた。
いいえ、これは雪ではない。
断罪の場に集まった民衆の、冷ややかな視線だ。
「クロエ・ド・アルヴェニア! 貴様のような血も涙もない『鉄の女』は、我が国の王妃にふさわしくない! よって本日をもって婚約を破棄し、その命をもって罪を償わせるものとする!」
広場に響き渡るのは、私の婚約者だったエドワード王太子の、高らかな宣告だ。
彼の隣には、守ってあげたくなるような可憐さで震える男爵令嬢が寄り添っている。
私が彼女を虐めた……という、身に覚えのない罪の証人だ。
私は、彼を睨みつけた。
……つもりは、一ミリもなかった。
ただ、あまりの理不尽さと、処刑台の恐ろしさに、全身の筋肉が岩のように硬直してしまっただけだ。
極度の緊張で顔が引きつり、呼吸すらままならない。
バクバクと暴れる心臓の音が、耳元でうるさかった。
「……っ、あ……」
必死に弁明しようと、私は震える唇を戦慄かせた。
けれど、喉がひりついて、まともな言葉にならない。
漏れ出たのは、剃刀のように鋭く冷たい吐息だけだった。
その瞬間、周囲の温度が劇的に下がった。
処刑台の床に霜が降り、最前列で槍を構える兵士たちが、ガタガタと歯の根を鳴らして震え出す。
私の体質――膨大な魔力が「恐怖」に反応して、物理的な冷気を放射してしまったのだ。
「見ろ! この期に及んで我らを威圧するとは、なんと厚顔無恥な!」
「やはりあいつは、心を持たない氷の化け物だ! 早く殺せ!」
違う。
私は、ただ、ものすごく怖いだけ。
震えが止まらないのを隠そうとして、体が固まっているだけなのに。
思えば、二十年の人生。死ぬ気で努力してきた。
王妃として後ろ指を指されぬよう、膨大な法典を暗記し、歴史を学び、礼儀作法を血が滲むまで叩き込んだ。
一度も弱音を吐かず、背筋を伸ばし、完璧な淑女として振る舞ってきたつもりだった。
それなのに、最後に見る景色が、これ?
誰一人、私の本心を見ようともしてくれなかった。
重い断頭台の刃が、上空で太陽の光を不吉に反射した。
(ああ。……もう、いいや)
糸が切れたように、心が軽くなった。
頑張るなんて、本当に無駄だった。
あんなに睡眠時間を削って勉強したのに。
大好きな甘いお菓子も、ふかふかのベッドでの二度寝も、全部我慢したのに。
(もし。もしも、やり直せるなら……)
私はゆっくりと、重い瞼を閉じた。
次は絶対に、誰が何と言おうと、一日中お布団の中で過ごしてやる。
胸元で、母の形見である古いペンダントが、焼けるような熱を持った。
直後、首筋に衝撃が走る代わりに、柔らかな浮遊感に包まれた。
◇◇◇
(経過時間:数秒/死の瞬間から直後)
「……ひ、っ!?」
私は、弾かれたように飛び起きた。
首筋に、冷たい刃の感触がこびりついている気がして、なりふり構わず手で触れる。
繋がっている。
温かい。皮一枚の傷もない。
代わりに指先に触れたのは、しっとりとした最高級シルクの感触だった。
「え……? ここは……」
周囲を見渡す。
そこは、石造りの冷たい処刑台でも、暗く湿った地下牢でもなかった。
柔らかな朝日が差し込む、広々とした、見覚えのある寝室。
私が17歳まで過ごした、公爵家の自室だ。
夢、だろうか。
それとも、死後の世界がお布団の中なのだろうか。
私はおそるおそる、自分の頬をつねってみた。
「っ……いたたた」
痛い。生々しいほどに痛い。
枕元にある、魔導時計に目を向けた。
カレンダーが示す日付は、私がエドワード王太子との婚約を承諾した翌朝。
人生が、あの「完璧という名の地獄」へ向かって暗転し始めた、まさにその日だった。
「戻ったの……? 本当に?」
信じられず、私はふらふらと鏡の前まで歩いていった。
そこに映っていたのは、処刑直前の泥をすすったような女ではない。
銀糸を紡いだような輝く長髪、透明感のある白い肌。
若々しく、生命力に満ちた、全盛期の私の姿だ。
……相変わらず、目つきは恐ろしく鋭いけれど。
自分では驚いているだけのつもりなのだが、鏡の中の私は「獲物を値踏みする冷徹な女帝」そのものの顔をしていた。
だが、今の私にはそんなことはどうでもよかった。
私は、あの処刑台の上で誓ったのだ。
二度目の人生があるなら、絶対に頑張らない。
他人の顔色を伺って自分を殺すのは、もう、おしまいだ。
コンコン、と控えめな、しかし規律正しいノックの音がした。
「クロエお嬢様、朝のお支度の時間でございます。本日はエドワード殿下より、婚約成立を祝したお茶会の招待状が届いております」
メイドのアンネの声だ。
一回目の人生では、この声を聞くやいなや「一分でも早く準備しなくては」と跳ね起き、一分の隙もない完璧なドレスを身に纏ったものだ。
そして殿下に嫌われぬよう、心臓をバクバクさせながら、会話の内容を千回はシミュレーションした。
けれど。
「……アン、ネ」
私は、低くて重みのある声で応えた。
喉がまだ寝ぼけていたせいで、地を這うような重低音になってしまった。
本当は「殿下に会うのが怖すぎて無理!」と叫びたいのだが、緊張が顔に出ない損な体質が、私の声を「絶対零度の拒絶」へと変換してしまう。
扉の向こうで、アンネがひっと息を呑む気配がした。
「わ、私に、何か……っ」
アンネが怯えている。
だが、私はもう自分を偽らない。
正直な気持ちを伝えるのだ。私は布団の中で、私らしく生きる。
「体調が、悪いの。今日は、一日、ここで寝ているわ……」
精一杯、儚げに言ったつもりだった。
しかし、同時に無意識の魔力が部屋の温度を数度下げたらしく、寝室の窓ガラスが「パキッ」と鳴った。
その瞬間、扉の向こうのアンネが、何かとてつもない衝撃を受けたような声を上げた。
「そ、承知いたしました! お嬢様の『殿下を祝うより先に、まずは私に相応しいもてなしの誠意を見せろ』という高潔な抗議、必ずやお伝えいたします!」
「えっ、ちょっと待っ……」
違う。
そんな過激なことは一言も言っていない。
ただお腹が痛いとか、そんな感じの「寝ていたい」を伝えたかっただけだ。
慌てて呼び止めようとしたが、アンネはすでに廊下を脱兎のごとく駆け去っていった。
あの勢いだと、そのまま公爵家全員に言い触らしかねない。
……まあ、いいか。
どうせ何をしても、私は「鉄の女」なのだ。
媚びを売っても殺されるなら、寝ながら嫌われたほうが一兆倍マシである。
私は二度目の人生で初めて、最高級の羽毛布団を頭まで被った。
この重み。この温かさ。
処刑台の冷たい板よりも、数万倍マシな感触が私を包み込む。
「これよ……。これが欲しかったのよ……」
意識が、とろりと幸福の淵へ溶けていく。
幸せな二度寝に沈みながら、私は確信した。
この「ぐうたら作戦」なら、殿下もすぐに呆れて、婚約を破棄してくれるはず。
そうすれば、私は領地の隅っこで一生寝て暮らせる自由を手に入れられるのだ。
だが、この時の私はまだ知らなかった。
私の「体調不良(物理的威圧付き)によるドタキャン」という不敬極まりない行動が。
王都の社交界で「傲慢な王太子に一矢報いた、気高き公爵令嬢の宣戦布告」として、とんでもない方向へ美談化されることになろうとは。
そして、その噂を聞きつけた隣国の「氷の騎士」が、奇妙な興味を抱いて私の元へ向かっていることも――。
私は静かに、幸せな寝息を立て始めた。




