第9章 聖女の嫉妬と黒い噂
エリザベスの小さな食堂『スパイス・パレット』は、開店と同時に、下町の新たな名所となった。
「なあ、聞いたか?路地裏にできた新しい食堂のカレーってやつ、めちゃくちゃ美味いらしいぞ!」
「ああ、食べた食べた!一度食ったら忘れられない味だ。明日も行こうぜ!」
評判は口コミで瞬く間に広がり、店は連日、昼も夜も満員御礼の状態が続いた。客層は様々で、屈強な労働者たちが汗を流しながら辛口のカレーを頬張る隣で、お洒落をした貴婦人たちが、物珍しそうに野菜カレーに舌鼓を打っている。身分の垣根を越えて、誰もが同じテーブルで美味しい料理を分かち合い、笑顔になっていた。
エリザベスは厨房で生き生きと働いていた。大きな寸胴鍋をかき混ぜ、リズミカルにスパイスを調合し、時には客席に顔を出して、客と気さくに会話を交わす。
「今日のカレーも最高だったぜ、姐さん!」
「ありがとうございます!また明日もお待ちしてますね!」
そんな彼女の姿は、もはや元公爵令嬢の面影はなく、人々から愛される看板娘そのものだった。
一方、その頃。王宮では、一人の少女が満たされない思いを抱えていた。
マリア・ベルンシュタイン。
エリザベスが自ら身を引き、邪魔者がいなくなった今、彼女は名実ともに王太子アレクシスの婚約者候補の筆頭となっていた。聖女としての名声も日増しに高まり、すべてが彼女の思惑通りに進んでいるはずだった。
なのに、なぜか心は晴れない。
原因は、エリザベスだ。
公爵令嬢の地位をあっさりと捨て、下町で自由に、そして何より楽しそうに生きているエリザベス。その噂を聞くたびに、マリアの胸は嫉妬の炎で黒く焦げ付いた。自分は窮屈な王宮で完璧な聖女を演じ続けているというのに、あの女は人々に囲まれ、愛されている。それが、我慢ならなかった。
特に許せないのは、アレクシス王太子の態度だった。
エリザベスとの婚約が解消された直後は、清々したような顔をしていた彼が、最近、時折エリザベスの噂を気にするそぶりを見せるのだ。
「……下町の新しい食堂が、流行っているそうだな」
側近との会話で、何気なくそう尋ねるアレクシスの声を、マリアは柱の陰で聞いてしまった。その声には、彼女が知らない何らかの感情が滲んでいた。
(どうして……どうしてあんな女のことを気にするの……?)
マリアは、王宮の豪華な自室で一人、ティーカップを握りしめた。白いレースの手袋の下で、爪が食い込むほど強く。
(アレクシス様の隣にいるのは、私。選ばれるべきは、この私なのに!)
エリザベスの成功が、まるで自分の価値を脅かしているように感じられた。あの女の輝きが、自分の存在を霞ませてしまう。その恐怖と焦りが、マリアを危険な考えへと駆り立てた。
「このまま、あの女をのさばらせておくわけにはいかない……」
彼女は腹心である、取り巻きの一人の子爵令嬢を呼びつけた。
「ねえ、お願いがあるのだけれど」
マリアは、いつものように純真無垢な聖女の仮面を被ったまま、しかしその瞳には氷のような冷たい光を宿して、静かに言った。
「下町にできた、あのお店の評判を、少しだけ落とすお手伝いをしてくださらない?もちろん、私の名前は出さないで」
数日後、王都では奇妙な噂が流れ始めた。
「聞いたかい?元公爵令嬢がやってる食堂、あそこでは客を惑わす毒草を使ってるらしい」
「毒草?ああ、あの変な匂いのする粉のことか」
「南方の呪術に使うものだとか……。あの女は、平民を実験台にして、何かよからぬことを企んでいるに違いない」
スパイスを知らない人々にとって、その噂は妙な説得力を持って響いた。エリザベスの出自と、カレーという未知の料理が、人々の漠然とした不安を煽る。
マリアが放った黒い噂は、じわじわと、しかし確実に、『スパイス・パレット』に暗い影を落とし始めていた。




