第5章 宣戦布告と、はじめての屋台
私の奇妙な行動は、当然、聖女マリア・ベルンシュタインの耳にも入っていた。公爵令嬢が厨房に入り浸り、王太子殿下に奇妙なアピールをしている、と。
ある晴れた午後、私が公爵家の庭園でハーブを摘んでいると、背後から鈴を転がすような声がした。
「エリザベス様、ごきげんよう」
振り返ると、そこに立っていたのはマリアだった。純白のドレスに身を包み、太陽の光を浴びてキラキラと輝く亜麻色の髪。その姿は、誰もが守ってあげたくなるような、完璧なヒロインそのものだ。
「マリア様。王宮からわざわざ、どうかなさいましたの?」
内心「来たわね、ヒロイン」と思いつつつ、私は優雅に微笑んでみせる。
マリアは心配そうな表情を浮かべ、私に近づいてきた。
「最近のエリザベス様の噂を耳にしまして……。その、あまり公爵令嬢らしくない振る舞いは、おやめになった方がよろしいのではなくて?アレクシス殿下も、ご心配なさっておりましたわ」
来た来た、牽制球。アレクシス殿下の名前を出して、私を諫めようという魂胆ね。健気な少女を演じているけれど、その瞳の奥には、王太子の婚約者である私に対する嫉妬と、独占欲がちらついている。
「ご忠告、痛み入りますわ、マリア様。でも、私の人生は私のもの。どう生きようと、私の勝手ですわよね?」
私は笑顔のまま、しかしきっぱりと彼女の言葉を退けた。
「それに、殿下にご心配いただいているなんて光栄ですわ。私の努力も、少しは殿下に届いているということでしょうから」
私の余裕の態度に、マリアの可憐な微笑みが一瞬、ぴくりと引きつった。彼女は、私が泣いて狼狽えるか、もしくは逆上するとでも思っていたのだろう。
「……エリザベス様のためを思って申し上げたのですけれど」
「ええ、分かっておりますわ。そのお優しいお心遣い、感謝いたします」
にっこりと微笑み合いつつも、私たちの間には目に見えない火花が散っていた。これは、宣戦布告だ。彼女は私を排除したい。私は彼女の思惑通りにはならない。ゲームのシナリオは、もう私には通用しないのだと、はっきりと示してやる必要があった。
マリアとの腹の探り合いの後、私はすぐにカイを呼び出した。
「収穫祭で、屋台を出したいの」
私の唐突な提案に、カイは目を丸くした後、腹を抱えて笑い出した。
「はっはっは!公爵令嬢が、収穫祭で屋台!?あんた、最高に面白いな!」
「笑いごとじゃないわ。私は本気よ。自分のカレーがどこまで通用するのか、この目で確かめたいの。それに、店の開業資金も稼がないと」
私の真剣な眼差しに、カイは笑うのをやめ、商人の顔になった。
「なるほどな。リスクはあるが、面白い試みだ。市場調査と宣伝を兼ねるわけか。いいだろう、乗った。俺の商会の名前を使えば、場所の確保も資材の調達もどうにかなる」
カイは驚くほど手際が良かった。彼の商会の力を借り、私たちは収穫祭で最も人通りの多い広場の一角に、小さな屋台のスペースを確保した。メニューは、手軽に食べられる「カレーパン」と、カップに注いだ「カップカレー」の二種類に絞ることにした。
収穫祭前夜。公爵家の古い厨房は、まるで戦場のようだった。大量の玉ねぎを刻み、涙を流しながら炒め、何十リットルものカレーを巨大な寸胴鍋で仕込む。カイも手伝ってくれているが、慣れない作業に二人ともヘトヘトだ。
「本当に、明日にはこれが全部売れるのかねえ」
汗を拭いながら、カイが心配そうに言う。
「売ってみせるわ。この香りで、道行く人の胃袋を鷲掴みにしてやるんだから」
鍋から立ち上る、複雑で魅惑的なスパイスの香り。期待と不安で、私の胸は大きく膨らんでいた。
そして、収穫祭当日。
王都は朝から、一年で一番の活気に満ち溢れていた。私は身分を隠すために、簡素な村娘風のワンピースにエプロンを締め、髪は頭巾で覆っている。
私たちの屋台は、広場の中心から少し外れた場所にあったが、それでも人の波は絶えない。
「さあ、いらっしゃいませー!東方から来た、新しくて美味しい料理はいかがですかー!」
腹の底から声を張り上げる。貴族令嬢として生きてきて、こんな大声を出したのは初めてだ。最初は恥ずかしかったが、市場の喧騒に紛れてしまえば、すぐに気にならなくなった。
しかし、人々は私たちの屋台を物珍しそうに遠巻きに見るだけで、なかなか足を止めてくれない。褐色のカレーも、揚げたてのカレーパンも、彼らにとっては未知の食べ物なのだ。
「カイ、どうしよう……誰も買ってくれないわ」
弱気になる私に、カイはニヤリと笑った。
「まあ、見てな。こういう時は、まず『匂い』で釣るんだよ」
そう言うと、カイはカレーを煮込んでいる鍋の蓋を少しずらし、鉄板でカレーパンを温め始めた。じゅう、という音と共に、凝縮されたスパイスの香りが、一気に周囲に拡散される。
その途端、遠巻きに見ていた人々の鼻が、ひくひくと動いた。
「……なんだ?このいい匂いは」
「肉と……何か香草の焼ける匂いか?」
ざわめきが起こる。人々の視線が、確実に私たちの屋台に注がれ始めていた。スパイスの香りに誘われるように、一人、また一人と、ゆっくりとこちらへ近づいてくる。作戦は、成功のようだ。




