第4章 王太子の知らない食卓
ついに完成した理想のカレー。これを武器に、私は離婚後の生活資金を稼がなければならない。そのためには、まず市場調査が必要だ。この未知の料理が、この世界の人々に受け入れられるのかどうか。
私は最初の試食ターゲットを、身近な人間に絞ることにした。手始めは、私の父、クライネルト公爵と、公爵家の厨房を預かる料理長だ。
父は厳格な貴族の鑑のような人物で、娘の私が厨房に入り浸っていることを「奇行」と断じ、快く思っていない。料理長はプライドが高く、自分の料理に絶対の自信を持っている。どちらも手強い相手だ。
「お父様、料理長。私が作った新しい料理を、ぜひ味わっていただきたくて」
私は緊張しながら、銀の皿に盛られたカレーライスを二人の前に差し出した。
父は眉間に深い皺を寄せ、訝しげに褐色のソースを眺めている。
「エリザベス、これは一体何だ?見たこともない……奇妙な食べ物だな」
「まあ、父上。毒など入っておりませんわ。まずは一口、お試しくださいな」
料理長も、スプーンを手に取りながら、値踏みするようにカレーを観察している。その目には「令嬢の遊びだろう」という侮りが浮かんでいた。
沈黙の中、二人が恐る恐るカレーを口に運ぶ。
次の瞬間、二人の表情が劇的に変化した。
父の目が、驚きに見開かれる。
「なっ……!う、うまい……!なんだこの複雑で、食欲を猛烈にそそる味は!スパイシーでありながら、野菜の甘みと肉の旨味が溶け合って……こんな料理、食べたことがないぞ!」
父は威厳も忘れ、夢中でスプーンを動かし始めた。一方の料理長は、スプーンを持ったまま固まっていた。その顔は蒼白になっている。
「このスパイスの配合……ありえない……。クローブとシナモンの甘い香りの奥に、今まで感じたことのない刺激的な香りが幾重にも重なっている。それでいて、全ての味が破綻せず、完璧な調和を保っている。一体……一体どうすればこんな味が出せるのですか、お嬢様!」
プライドを完全に打ち砕かれた料理長は、ついには私に向かって頭を下げ、「どうか、この老いぼれに、その秘訣をご教示ください!」と教えを乞う始末だった。
父も、皿を空にする頃にはすっかり上機嫌になり、「エリザベス、お前にはこんな才能があったのか!この料理なら、王家の晩餐会に出しても恥ずかしくないぞ!」と手放しで絶賛してくれた。
まずは、第一関門突破だ。
次に私が向かったのは、お忍びで訪れた下町のパン屋だった。このパン屋は、私が幼い頃、一度だけ侍女とこっそり訪れたことがあり、その時のパンの味が忘れられなかったのだ。今は、代替わりした若い夫婦が店を切り盛りしている。
「ごめんくださいな。突然すみません、少しだけ味見をお願いしたいものがあるのですが」
フードで顔を隠した私に、夫婦は最初は戸惑っていたが、私が差し出したカレーの香りに鼻をひくつかせた。
「へえ、なんだいこりゃ。すごくいい匂いだ!」
パン屋の主人は、興味津々でカレーを一口。そして、目を丸くした。
「うめえ!なんだこれ!ちょっとピリッとするけど、後から旨味が追いかけてきて、パンが進むぜ!」
奥さんも「本当だわ!このソース、パンに浸して食べたら最高じゃないかしら!」と大興奮だ。
私は持参したパンをちぎり、カレーに浸して食べるという新しいスタイルを提案した。これが大当たり。夫婦は「これなら絶対に売れる!うちのパンと一緒にセットで売らないかい、お嬢さん!」とまで言ってくれた。
身分も立場も違う人々が、私の作ったカレーを「美味しい」と言ってくれる。その事実が、じわりと胸に広がり、大きな自信となった。私の料理は、通用する。この道で生きていける。
着々と成功への手応えを感じ、私は満足して公爵家への帰路についた。
その頃、王宮の豪華な執務室では、アレクシス王太子が一人、味気ない食事を摂っていた。
今日の昼食は、仔牛のローストに、茹でただけの野菜、そして味のしないコンソメスープ。栄養バランスは完璧に計算されているが、そこには何の楽しみもない。ただ、生命を維持するための作業だった。
食に興味がない彼にとって、食事は常にそういうものだった。
しかし、最近、その無味乾燥な日常に、小さな引っかかりが生まれていた。
エリザベス・フォン・クライネルト。
彼の婚約者であるはずの彼女は、最近、奇妙な行動ばかりが目立つ。甘すぎる菓子を差し入れてきたり、興味もない刺繍の話を延々としたり。以前の、控えめで感情を表に出さない彼女とはまるで別人だ。
最初は苛立ちを覚えていた。気を引こうとする浅はかな振る舞いだと。
だが、そうではないのかもしれない、と最近は思うようになった。彼女の瞳には、以前にはなかった強い光が宿っている。それは、何か確固たる意志を持った人間の瞳だ。生き生きとして、輝いている。
先日、ティータイムで彼女が帰った後、部屋に残っていた甘い焼き菓子の香りを、なぜか心地よいと感じてしまった自分に戸惑った。
(あいつは……エリザベスは、いつも、どんな食事をしているのだろうか)
ふと、そんな疑問が頭をよぎる。
豪華だが、孤独で味気ない食卓。アレクシスは、自分が今まで考えたこともなかった問いに、答えを見つけられないまま、静かにスプーンを置いた。彼の胸の内に生まれた小さな引っかかりは、ゆっくりと、しかし確実に存在感を増し始めていた。




