第3章 運命のスパイスと離婚計画
数日後、約束通りカイ・シュヴァルツが公爵家を訪れた。もちろん、表向きは「クライネルト公爵に珍しい絹織物を納品する商人」として。私は彼を人目につかないよう、秘密の厨房へと案内した。
「さて、お嬢様。お望みの品かもしれないブツを持ってきたぜ」
カイはにやりと笑いながら、大きな革袋をテーブルの上に置いた。ゴソゴソと中を探り、小さな麻の袋をいくつか取り出す。
一つ目の袋の口を開けた瞬間、私の全身に電流が走った。
ふわりと立ち上る、少し土臭く、野性的で、しかしどうしようもなく食欲をそそるあの香り。
「……クミン」
思わず、震える声で呟いた。前世で、毎日嗅いでいた懐かしい香り。これだ。これさえあれば。
「ほう、当たりかい?」
面白そうに言うカイを待たせるように、私は次々と袋の封を開けていく。爽やかで甘い柑橘系の香り――コリアンダー。独特の土の香りと鮮やかな黄金色の粉末――ターメリック。そして、高貴で清涼感のあるカルダモン、甘くエキゾチックなシナモン、ピリリと鼻を刺激するカイエンペッパー……。
「……夢のようだわ」
私は恍惚の表情でスパイスの香りを吸い込み、涙ぐんでいた。失われたと思っていた故郷の味に、ようやく再会できたのだ。その様子を、カイは腕を組んで、満足そうに、そしてどこか優しい目で見つめていた。
「気に入ってもらえたようで何よりだ。で、取引成立といくかい?」
「ええ、もちろん!ここに在るもの、すべて買い取らせていただくわ。今後も、継続的に仕入れることは可能かしら?」
「あんたが俺の面白い『取引相手』であり続ける限りはな」
私たちは固い握手を交わし、正式な取引契約を結んだ。彼は商人として莫大な利益の匂いを、そして私は料理人として無限の可能性を感じていた。
カイが帰った後、厨房は私の独壇場だった。
「まずは基本のチキンカレーからね!」
手に入れたばかりのスパイスを石臼で丁寧に挽く。ゴリゴリという音と共に、厨房には複雑で芳醇な香りが満ちていく。これだ、この香りだ。
鍋に油を熱し、クミンシードを投入する。パチパチと弾ける音、立ち上る香ばしい匂い。次いで、みじん切りにした玉ねぎを加え、ひたすら炒める。弱火でじっくり、焦がさないように。飴色になるまで、甘みを最大限に引き出す。この工程を疎かにしては、美味しいカレーは作れない。
前世の知識と経験が、私の身体を動かしていく。ニンニクと生姜のすりおろしを加えて香りを立たせ、トマトを加えて酸味と旨味を凝縮させる。そして、主役であるスパイスパウダーを投入。ターメリック、コリアンダー、カイエンペッパー……。スパイスが油と混ざり合い、むせ返るような、しかし最高の香りが立ち込める。これぞ『飯テロ』の真髄だ。
ヨーグルトに漬け込んでおいた柔らかい鶏肉を加え、表面を焼き付けたら、水を注いで煮込んでいく。コトコト、コトコト。鍋の中で繰り広げられる、味と香りの饗宴。
仕上げにガラムマサラを振り入れ、塩で味を調える。艶やかなブラウンのルーに、黄金色の油が浮かんでいる。炊き立てのご飯を皿に盛り、その横に完成したばかりのカレーをそっと流し込む。
完璧だ。
私はスプーンを手に取り、恐る恐る一口、口に運んだ。
最初にガツンとスパイスの香りが鼻を抜け、次いで玉ねぎの深い甘みとトマトの酸味が広がる。鶏肉は驚くほど柔らかく、後からじんわりと辛さが追いかけてくる。複雑で、奥深く、一口食べるごとに食欲が刺激される。
「……これよ、この味!」
前世で私が愛し、目指し続けた味。その懐かしさと達成感に、思わず涙が頬を伝った。私はもう、無力な悪役令嬢じゃない。このカレーがあれば、私は自分の足で立っていける。
カレーの完成に歓喜する一方、私はもう一つの計画、「アレクシス殿下との離婚計画」も着々と進めていた。
目標は、彼に「こんな女、妃になんてできるか!」と心底嫌われること。
ゲームの記憶によれば、彼は甘いものが苦手で、真面目で実直な女性を好む。刺繍や詩を嗜む、淑やかな令嬢がタイプのはずだ。
ならば、その逆をやればいい。
「殿下、本日は殿下のために、特別なお菓子を焼いてまいりましたの。甘いものがお好きだと伺いましたので、お砂糖をたーっぷりと使ってみましたわ」
王宮でのティータイム。私はこれでもかというほどクリームと砂糖でデコレーションされたケーキを、満面の笑みでアレクシスの前に差し出した。彼の眉がピクリと動くのが分かった。
「……そうか。ありがとう」
彼は僅かに口をつけただけで、フォークを置いた。よしよし、効果は抜群だ。
またある時は、彼の興味のない話を延々と続けた。
「まあ、殿下!私の新しい刺繍の図案をご覧になって?この薔薇の複雑なことといったら!一針一針に心を込めて……」
うんざりするはずのアレクシスは、しかし、どこか奇妙な表情で私を見ていた。
「……エリザベス。君は最近、少し変わったな」
「まあ、お気づきになりましたか?これも殿下に振り向いていただくための、私なりの努力ですわ!」
わざとらしく微笑む私に、彼は何も言えず、ただ困惑したように眉を寄せるだけだった。
おかしい。計画通り、嫌われるような振る舞いをしているはずなのに、彼の反応は私の予想とは少し違っていた。以前の私に見向きもしなかった彼が、最近はやけに私のことを見ている気がする。その視線は、軽蔑ではなく、まるで未知の生き物を観察するような、苛立ちと……ほんの少しの興味が混じった色をしていた。
私の離婚計画は、どうやら思わぬ方向へ進み始めているらしかった。




