第2章 はじめての交渉相手は胡散臭い商人
理想のカレーが作れない。その事実が、ずしりと重く私の肩にのしかかっていた。あれから数日、私は古い厨房に籠もり、手持ちの香辛料の配合をあれこれ変えて試作を繰り返したが、結果は惨憺たるものだった。深みのないスパイシーなシチューもどきが量産されるばかりで、私のフラストレーションは溜まる一方だ。
「はあ……クミンもコリアンダーもターメリックもないなんて。これじゃあ、ただの香草煮込みよ……」
厨房のテーブルに突っ伏して、私は大きなため息をついた。計画の第一歩目から、こんなにも大きな壁にぶち当たるなんて。
そんな私の様子を、心配そうに見ていたのは侍女のアンナだった。
「お嬢様、最近ずっとこちらの厨房に籠もっていらっしゃいますが、一体何を……?」
「アンナ……私は、理想の料理が作れなくて悩んでいるのよ」
しょんぼりと答える私に、アンナは少し考え込むと、ぱっと顔を輝かせた。
「でしたら、良い噂をお教えしますわ!今、王都に、東の大陸から来たという珍しいものを扱う商人が滞在しているそうですよ。香辛料なんかも、見たことのないものをたくさん持っているとか」
その言葉に、私はガバッと顔を上げた。
「本当!?その商人はどこにいるの?」
まるで暗闇に差し込んだ一筋の光だった。藁にもすがる思いとは、まさにこのことだ。アンナから商人が滞在しているという下町の宿屋の名前を聞き出すと、私の心は決まった。
「アンナ、少し出かけてくるわ。内密にお願いね」
私は侍女の制止も聞かず、クローゼットから一番目立たない地味なフード付きのケープを引っ張り出すと、裏口からこっそりと屋敷を抜け出した。
公爵令嬢として育った私にとって、下町は未知の世界だった。石畳の道は貴族街ほど整備されておらず、建物の間隔も狭い。しかし、そこには貴族街にはない活気とエネルギーが満ち溢れていた。
行き交う人々の賑やかな声、パン屋から漂う香ばしい匂い、鍛冶屋から聞こえるリズミカルな槌の音。その全てが新鮮で、私の胸を躍らせた。普段の堅苦しい生活とのギャップに驚きつつも、どこか懐かしい。そうだ、前世で商店街を歩いていた時と似ている。
目的の宿屋は、大通りから少し入った場所にあった。一階が酒場になっている、ごく普通の宿だ。私はフードを目深に被り、少し緊張しながら中へと足を踏み入れた。
酒場の主人に商人の部屋を尋ねると、彼は少し訝しげな顔をしながらも、二階の突き当たりの部屋だと教えてくれた。
コンコン、とドアをノックする。
「どうぞ」
中から聞こえてきたのは、少し気だるげな、けれどよく通る若い男の声だった。私は意を決して、ドアを開けた。
部屋の中は、様々な荷物で雑然としていたが、不思議と不潔な感じはしない。窓辺の椅子に、一人の青年が腰掛けていた。黒に近い深い色の髪を無造作に後ろで束ね、褐色の肌。そして、東方の民族衣装を思わせるゆったりとした服を着こなしている。切れ長の瞳が、私を面白そうに品定めするように見つめていた。
「……お嬢さん、何の用かな?俺はしがない行商人なんだが」
男は、カイ・シュヴァルツと名乗った。その口元に浮かんだ笑みは、魅力的ではあるが、同時にひどく胡散臭い。
「あなたが、珍しい香辛料を扱っていると聞いて来ました」
私は単刀直入に切り出した。フードを取り、公爵令嬢としての威厳を少しだけ意識して彼と向き合う。
「香辛料、ねえ。いくつかはあるが、お嬢さんのような方が求めるものがあるかどうか」
「探しているものがあります。リストにしてきましたわ」
私は懐から、前世の記憶を頼りに書き出したスパイスのリストを彼に差し出した。
カイはそれを受け取ると、眉をひそめた。
「……クミン?コリアンダー?ターメリック?お嬢さん、これはどこの国の言葉だ?こんな名前の草、聞いたことがないが」
彼の反応は予想通りだった。この世界では、まだ名前すらないのかもしれない。だが、諦めるわけにはいかない。ここからが本番だ。
「名前は私が仮につけたものかもしれません。ですが、その特徴を説明することはできます」
私は椅子に座ることも忘れ、一心不乱に語り始めた。
「クミンは、少し土臭くて、でも食欲を強烈にそそる独特の強い香りを持っています。肉料理に使うと、臭みを消して旨味を引き出すんです!そしてコリアンダー!葉は好き嫌いが分かれますが、種子は柑橘類のような爽やかさと、ほんのり甘いスパイシーな香りが特徴で、料理に軽やかさと奥行きを与えてくれるの!それからターメリック!これは色付けが主な役割。鮮やかな黄金色で、少し苦みと土の香りがあって、料理の見た目を華やかにするだけじゃなく、防腐効果も……」
気がつけば、私は身振り手振りを交え、スパイスへの愛を熱弁していた。その様子を、カイは最初は面白がるように、しかし次第に真剣な、まるで未知の宝物を見るような眼差しで見つめていた。彼の飄々とした表情が消え、商人としての鋭い光が瞳に宿っている。
一通り語り終えた私がはっと我に返ると、カイは口の端を上げて、にやりと笑った。
「……なるほどな。あんた、面白い。そこまで熱く語られると、こっちも興味が湧いてくる」
彼はリストを指で弾いた。
「いいだろう。あんたの言う『特徴』に合うものが、俺の荷物の中にあるかもしれない。いくつか心当たりがある。次の取引の時にでも、サンプルを持ってきてやるよ」
「本当!?」
「ああ。ただし、これはビジネスだ。もしあんたの眼鏡にかなう品だったら、きっちり代金はもらう。……いや、それ以上に面白い取引になりそうだ」
彼の言葉に、私は計画への大きな一歩を踏み出した確かな手応えを感じた。
カイとの約束を取り付け、宿屋を出る。公爵邸への帰り道、私の足取りは信じられないくらい軽やかだった。下町の活気も、今は私の未来を応援してくれているように感じられる。
「待っててちょうだい、私のカレー……!」
心の中で呟きながら、私は夜空を見上げた。希望の光が、はっきりと見えていた。




