【番外編3】 公爵の秘密の楽しみ(視点:クライネルト公爵)
娘、エリザベスが「料理人になりたい」と言い出した時、私は正直、頭が痛かった。
クライネルト公爵家の令嬢が、厨房に立つなど前代未聞。ましてや、王太子殿下との婚約を破棄してまで、商人のようなことをしたいなど、正気の沙汰ではないと思った。
王家との関係悪化を懸念し、私は何度も娘を諫めようとした。
だが、あの日。娘が作った『カレー』という名の料理を、初めて口にした日。私の考えは、百八十度変わった。
衝撃的な美味さだった。しかし、それ以上に私の心を揺さぶったのは、その料理に打ち込む娘の、幸せそうな顔だった。
私が今まで見たこともないような、活き活きとした輝き。
ああ、こいつは本気なのだ、と。この道こそが、この子の本当の幸せなのだと、認めざるを得なかった。
だから、王宮の謁見の間で、娘が王太子殿下に離縁状を叩きつけた時、私は内心で「よく言ったぞ、エリザベス!」と快哉を叫んでいた。もちろん、父親として、国王陛下には平身低頭で謝罪したが。
娘が公爵家を出た後も、私の心配は尽きなかった。世間の風は冷たいだろう。苦労もするだろう。
だが、私はあえて援助をしなかった。「自らの力で生きていく」と決めた娘の覚悟を、信じてやりたかったからだ。
……というのは、建前だ。
実のところ、私は陰でこっそりと、娘を支えていた。
例えば、娘の店に厄介な貴族がちょっかいを出そうとしていると聞けば、その貴族を呼び出し、「私の娘に何かあれば、どうなるか分かっているだろうな?」と釘を刺しておく。
例えば、娘が新しいスパイスを欲しがっていると聞けば、懇意にしている貿易商に「それとなく、シュヴァルツ商会に上質な品を融通してやれ」と裏で手を回しておく。
そして、何よりも。
お忍びで何度も『スパイス・パレット』に足を運び、客に紛れて娘のカレーを食べるのが、私の密かな楽しみになっていた。
変装用の髭をつけ、しがない老紳士を装ってカウンターの隅に座る。娘は、まさか自分の父親が来ているとは夢にも思っていないだろう。
厨房で生き生きと働く娘の姿を見ながら食べるカレーは、格別の味がする。一口食べるごとに、娘の成長と幸せが感じられて、胸が熱くなるのだ。
娘が、あのカイ・シュヴァルツという青年と結婚すると報告に来た日。私は、心から安堵した。あの男なら、娘を任せられる。
二人の結婚パーティーの日。私は招待客としてではなく、遠くの通りから、そっと店の様子を眺めていた。
手作りの装飾で飾られた温かい店内で、友人たちに囲まれ、幸せそうに笑う娘の姿。その隣には、頼もしい青年がいる。
その光景を見て、私の目から、一筋の涙が静かにこぼれ落ちた。
厳格な公爵としての仮面の下で、私はただ、娘の幸せを願う、一人の父親でしかなかったのだ。
それでいい。これからも、私はただのカレー好きの老紳士として、時々、娘の店を訪れることにしよう。それが、私の最高の楽しみなのだから。




