【番外編1】 商人が恋をした日(視点:カイ)
エリザベス・フォン・クライネルト。
最初に彼女が俺の宿屋を訪ねてきた時、正直に言って、「また面倒なのが来た」としか思わなかった。
フードを目深に被ってはいるが、仕立ての良いケープや、言葉の端々からにじみ出る気品は隠せていない。世間知らずの貴族のお嬢様が、何か物珍しいものでも探しに来たのだろう。そう高を括っていた。
だが、彼女が懐から取り出したリストと、その口から語られる言葉に、俺は度肝を抜かれた。
「クミン」「コリアンダー」「ターメリック」。
聞いたこともない名前の香辛料を、彼女はまるで長年の恋人について語るかのように、熱っぽく、生き生きと説明し始めたのだ。
その瞳は、ただの好奇心なんかじゃなかった。知識に裏打ちされた、純粋な探求心と、燃えるような情熱の光。俺が世界中の市場を巡る中で、時折出会う、本物の職人や研究者が浮かべるのと同じ光だった。
公爵令嬢という窮屈な籠の中で、これほどの情熱をどうやって育んできたのか。この女は、一体何者なんだ?
その瞬間、俺の中で何かが変わった。ただの商売相手じゃない。この女の夢が、どんな形になるのか見てみたい。そう強く思った。
だから、彼女の言う特徴に合うスパイスのサンプルを持って、公爵家を訪ねた。
秘密の厨房で、俺が差し出したスパイスの香りを確かめる彼女の表情は、忘れられない。まるで聖遺物にでも触れるかのように、うっとりと目を閉じ、涙ぐむ姿。その横顔の美しさに、俺は完全に心を奪われていた。
そして、彼女が初めて作った『カレー』を試食させてもらった時の衝撃。
それは、ただ美味しいなんて言葉では足りなかった。スパイスの複雑な香りと味の奥に、彼女の人生そのものが溶け込んでいるような、魂を揺さぶる味がした。絶望から這い上がろうとする強い意志と、料理へのひたむきな愛情。その全てが、あの一皿に込められていた。
ああ、こいつは本物だ。俺は、この女に賭けよう。
そう決めた日から、彼女の夢は俺の夢になった。
収穫祭で屋台を出したいという無茶な提案にも、笑いながら乗った。エプロン姿で必死に声を張り上げる彼女は、着飾った夜会の時より、何百倍も輝いて見えた。
王宮で、王太子に堂々と離縁状を叩きつけた日。謁見の間から出てきた彼女の、晴れやかな顔を見た時、俺は心の中でガッツポーズをした。よくやった、と。これで彼女は、本当に自由になったのだと。
彼女の店の看板を作り、一緒にペンキを塗り、開業資金の計算をした。その全てが、宝物のような時間だった。
俺は商人だ。損得勘定で動くのが当たり前だ。
だが、エリザベス・フォン・クライネルトという存在は、俺の人生最大の「儲け話」だった。金や物じゃない。彼女の隣にいるだけで、俺の世界はこんなにも面白く、色鮮やかになったのだから。
だから、あの夕暮れの王宮で、俺は人生最大の取引を持ちかけた。
「俺を、君の生涯のビジネスパートナー兼、夫にしてくれないか?」
彼女が涙を浮かべて頷いてくれた瞬間、俺は、この世界で一番の幸せ者になったのだった。




