第1章 悪役令嬢、厨房に立つ
【登場人物紹介】
◆エリザベス・フォン・クライネルト(主人公)
前世はカレー専門店の店長代理、佐藤莉奈。公爵令嬢として転生するも、そこは乙女ゲームの世界。自分がヒロインをいじめる悪役令嬢だと気づき、破滅フラグ回避と自分の夢のため行動を開始する。現実的で行動力があり、スパイスと料理への情熱は誰にも負けない。
◆アレクシス・フォン・ヴァインベルグ(元婚約者)
王国の王太子で、ゲームの攻略対象。生真面目で堅物。エリザベスとの政略結婚に義務感しかなく、平民出身の聖女マリアに心惹かれている。食に興味がなく、味気ない日々を送っていたが、エリザベスの変化に心を揺さぶられていく。
◆カイ・シュヴァルツ(ビジネスパートナー/ヒーロー)
異国情緒あふれる青年商人。スパイスなどの珍しい食材を扱う。エリザベスの作るカレーと、彼女の情熱に惚れ込み、最高の協力者となる。飄々としているが、鋭い洞察力と確かな商才でエリザベスを支える。
◆マリア・ベルンシュタイン(ヒロイン)
ゲームのヒロイン。平民出身の聖女。可憐で健気な少女を演じているが、その裏ではしたたかに成り上がりを狙っている。自分より注目を集めるエリザベスを陥れようと画策する。
シャンデリアの光が宝石のように降り注ぎ、着飾った貴族たちの囁きがワルツの調べに溶けていく。王宮で開かれた豪華絢爛な夜会。その華やかさとは裏腹に、私の心は凍てつくように冷え切っていた。
視線の先には、婚約者である王太子アレクシス・フォン・ヴァインベルグ殿下。そして、その隣で儚げに微笑む少女、マリア・ベルンシュタインの姿があった。
アレクシス殿下がマリアに向ける眼差しは、今まで私に向けられたことのない熱を帯びていた。それは、義務や責任ではなく、純粋な好意からくる温かい光。その光景を見た瞬間、私の頭の中に、雷が落ちたような衝撃が走った。
(――ああ、思い出した)
目の前の光景と、脳裏にフラッシュバックするゲームのオープニングムービーが完全に一致する。
前世の私、佐藤莉奈。三十路手前でカレー専門店の店長代理を務め、スパイスの沼にどっぷり浸かっていたオタク。連日の激務の末、多分、過労死した。そして今、私がいるのは、前世で妹が夢中になっていた乙女ゲーム『王宮の聖女と七つの愛の詩』の世界。
そして私は、主人公の聖女マリアをいじめ抜き、最後には王太子アレクシスから婚約破棄を突きつけられ、断罪される悪役令嬢、エリザベス・フォン・クライネルト。
……嘘でしょ?
絶望に目の前が真っ暗になりかける。だが、次の瞬間、私の内側からむくむくと湧き上がってきたのは、悲しみではなく、前世で培われた不屈の社畜根性だった。
「冗談じゃないわよ……!」
思わず呟いた声は、誰にも聞こえなかっただろう。
思い出せ、佐藤莉奈。理不尽なクレーム、無茶なシフト、突然の欠員。数々の無理難題を乗り越えてきたじゃないか。ゲームのシナリオ通りに、みすみす破滅してやる義理なんてない。
断罪?追放?上等じゃない。こっちから願い下げだわ!
アレクシス殿下の隣で、お飾りの妃になる未来なんて、考えただけで虫唾が走る。食に興味がない男の食卓を管理するなんて、料理人としてのプライドが許さない。
私の夢は、前世で果たせなかった自分の店を持つこと。世界中のスパイスを集めて、最高の一皿を作り上げること。
そうだ、道は決まった。
第一目標、「王太子との円満(?)な婚約破棄」。
第二目標、「料理での経済的自立」。
私はぎゅっと拳を握りしめ、心の中で高らかに宣言した。
破滅フラグは、この手でへし折る。そして、この世界で最高のカレーを作ってみせる!
夜会をそつなくこなし、公爵家へと戻った私は、自室でペンを片手にゲームの記憶を必死に手繰り寄せていた。
「確か、断罪イベントは……卒業パーティーの日。ってことは、残り一年もないじゃない!」
時間は思ったより少ない。ぐずぐずしている暇はない。私はドレスを脱ぎ捨て、動きやすいシンプルなワンピースに着替えると、音を立てないように部屋を抜け出した。
向かう先は、公爵家の広大な敷地の片隅にある、今はもう誰も使っていない古い厨房。埃っぽく、ひんやりとした空気が私を迎えた。
「ふふ、ここが私の城ね」
誰にも邪魔されない、秘密の実験室。私はスカートの裾をまくり上げ、まずは掃除から始めた。埃を払い、錆びついた調理器具を磨き、かまどに火を入れる。じんわりと温かさを取り戻していく厨房は、まるで私の新しい人生の始まりを祝福してくれているかのようだった。
準備は整った。さあ、始めよう。私の夢の第一歩を。
公爵家の厨房から拝借してきた、この世界で手に入る限りの香辛料を並べる。黒胡椒、クローブ、ナツメグ、シナモン……。悪くはない。だが、決定的に足りない。
「まあ、無いものは仕方ない。まずは今あるもので……」
私は記憶を頼りに、玉ねぎを飴色になるまでじっくりと炒め、鶏肉と野菜を加え、香辛料を砕いて投入する。コトコトと煮込む鍋から立ち上る香りは、確かにスパイシーではある。しかし、それは私が求める香りではなかった。
完成した「カレーのようなもの」を一口、スプーンで掬って口に運ぶ。
……違う。全然、違う。
スパイシーではあるが、深みがない。香りの立体感がない。食欲を根こそぎ掻き立てる、あの魔法のような中毒性がない。
「これじゃない……!これじゃないのよ!」
私はスプーンを置き、天を仰いだ。
「クミン、コリアンダー、ターメリック……!カルダモン、フェヌグリーク、カイエンペッパー!私の愛するスパイスたちは、一体どこにあるの!?」
理想のカレーへの道は、想像以上に険しい。私の嘆きは、静まり返った深夜の厨房に虚しく響き渡るのだった。




