赤い空のほうへ
――辛うじて、消えなかった。
それだけが、確かな事実だった。
夜明け前の冷たい空気の中で、キョウカは揺れていた。
人の形をしているはずなのに、輪郭は曖昧で、光の加減ひとつで溶けてしまいそうだった。
そこに“いる”と認識すること自体が、すでに祈りに近い。
ヨスガは膝をつき、視線の高さを合わせる。
「……まだ、生きたいの?」
声が震えないことに驚いた。
必死に縋る声でも、答えを強要する声でもない。
ただ、確認するための言葉。
キョウカは答えない。
唇も動かないし、目も伏せたままだ。
それでも、消えない。
夜の名残を引きずった空が、ゆっくりと色を変えていく。
流しきった血のような色合いは薄れ、代わりに淡い橙が滲んでいく。
「……そうだよね」
ヨスガは、空を見上げた。
「僕らは、まだ知らないんだ」
言葉を探し、選ぶ。
「あの赤い空の向こうを」
村の空しか知らなかった。
この場所で生まれ、この場所で閉じて、疑うことすら教えられなかった。
だが、世界は続いている。
この空の向こうにも、当たり前のように。
――行こう。
それは希望ではなかった。
逃避でもない。
ただ、確かめなければならない、という衝動だった。
◆◆◇◇
村の境を越えた直後だった。
土の匂いと、湿った木々の気配の中に、明らかに異質な存在が入り込んでくる。
黒塗りの車。
光を反射しない塗装。
無骨で、感情を拒むような形。止まる音は低く、短かった。
扉が開く。
降りてきた男たちは、視線を交わすことすらなく、一直線にヨスガへ向かってくる。
「――なん」
言葉は途中で途切れた。
右腰に走る電撃。
視界が反転し、重力が消え、次の瞬間には闇だけがあった。
◆◆◇◇
目を覚ましたとき、最初に感じたのは「広さ」だった。
天井が高い。
村の家屋ではありえない距離。
白く、均一で、汚れ一つない。
どこを見ても、人の生活の痕跡が削ぎ落とされている。
柔らかすぎる寝台。
鼻を刺す、消毒と甘い香料が混ざった匂い。
身体を起こし、違和感を確かめる。
拘束はない。だが、それが逆に不気味だった。
窓に近づく。
カーテンを引いた瞬間、視界が一気に開ける。
都市だった。
限りなく、空に向かって積み上げられた建物が並んでいる。僕がいる建物はかなり高いようだ。
下を見れば、幾何学的に区切られた道路を、無数の車と人が流れている。
村では、人は“誰か”だった。
ここでは、人は“量”だった。
数として扱われ、個々の重さは均される。
誰かが倒れても、流れは止まらない。
赤い空の向こうにあったのは、夢でも救いでもない。
ただの、現実の続き。
ノックの音が、背後で響いた。
◆◆◇◇
扉を開けた、使用人と名乗る男。
背筋は伸び、無駄な動きは一切ない。
ガタイの良さと感情のない青い目が、威圧感を纏っている。
「ここはどこだ」
返事はない。
「誰の差し金だ」
無言のまま、歩くように促される。
廊下は長く、直線的で、曲がり角の先まで見通せない。
逃げ道を考えさせない構造。
ヨスガは苛立ちを隠さなかった。
「ねえ、無視? 拉致しておいて説明もないんだ。」
その瞬間、使用人の男が足を止め、鋭く睨みつけてきた。
「――主の命だから、貴方を生かしている」
声は低く、冷たい。
「自分が大勢殺めた、人殺しであることを忘れるな」
胸の奥が、ずしりと沈む。
「……たしかにそうだが」
ヨスガは、視線を逸らさなかった。
「あいつらだって、人殺しだ」
男は、わずかに口角を歪める。
「人一人のために暴走して、他の大勢を踏みにじることは、正義でもなんでもない」
一歩、距離を詰める。
「反省しろとは言わない。だが、自分の立場を自覚しろ」
そして、最後に。
「自分のせいで、大切な人が人殺しになって。
それで、喜ぶ奴があるか?」
僕は何も言えなかった。
◆◆◇◇
案内された部屋は、予想に反して私的だった。
「……あっ」
短い声。
次の瞬間、相手が足をもつれさせる。反射的に手を伸ばし、身体を支えた。
そのまま、しがみつかれた。
顔を上げた相手を見て、息が止まる。
「……モクヒ?」
焦りと不安が、そのまま表情に出ている。なんだか縋ってるような。
取り繕いのない、昔助けた子犬と同じ顔。
「わ、分かるんですか!?」
驚きと、純粋な喜びが滲む声。
「分かるさ。その不安そうな顔、変わってない。
……君は随分変わったようだけど」
空気がほっ、と緩んだ。
あの狗神の息子、モクヒ。母親に縋るしか無かった子犬。あの頃の姿とは随分かけ離れている。
「た、たたた大して変わってないですよぉ。一応色んな方と情報やお金や呪いをやり取りしてますけど、こないだなんてすごく怖い方と取引してる間、もうずっと足が震えそうで声もうまく出せなくてぇ…。あ、これ言わない方が良かったかも?」
使用人が呆れたように視線を逸らすのを見て、モクヒは慌てて言った。
「り、リンドウはもう下がってていいから!」
使用人の男――リンドウが一礼して扉が閉まり、室内に静寂が戻る。
モクヒは一度、深呼吸し、背筋を伸ばした。
◆◆◇◇
「……キョウカが、弱っているんでしょう。」
ワントーン下がった声色に、モクヒの"今"を感じる。
「存在を保つには、生贄が必要です。」
指先が、冷えていくような心地がした。
「生贄になるにも条件があります。」
モクヒは、淡々と指を折っていく。
「印瞳 縁、貴方はなれない。
印瞳の一族も、なれない。
そして、自ら生贄になることを望まなければならない。」
「……なんで、そこまで知ってる。」
訝しむヨスガに、モクヒは一瞬だけ視線を逸らした。
「母――狗神の助けです。」
そして、続けて言う。
「監視するように言われています。
"結び"や世界、一族の生き残りに害をなすなら……始末しろ、とも」
沈黙。
次の瞬間、モクヒの肩が落ちた。
「で、でも……それとは別に」
「貴方に、恩返しがしたいんです。
だから……全面的に協力します。
ヨスガさんだけが間違ってるとは、僕は思えない。」
不器用で、必死な視線。
(守りたいなら、奪うしかない)
その考えが、また浮かぶ。
だが、同時に、朝焼けの中で揺れていたキョウカの姿が胸を締めつける。
(……それを)
ヨスガは、目を伏せた。
(それを、キョウカは望むだろうか)
赤い空の下、僕らが憧れた世界は、
答えを与えず、選択だけを突きつけてくる場所だった。
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