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淡い初恋

 広島の朝は、まだやわらかな光に包まれていた。路面電車の線路沿いに立つ家々の瓦が、淡い陽を返している。少女は毎朝、同じ時間に駅に立つ。やがて、銀色の車体が音を立てて滑り込む。


 あの人も、乗っている。


 そう思うだけで胸の奥がふわりと熱くなる。少年の名を、少女は知らなかった。ただ、いつも同じ車両の同じ窓際に座るその姿を、心のどこかで待ち望んでいた。電車が動き出し、二人の間を風が通り抜ける。視線がふと重なると、どちらからともなく目を伏せた。言葉など、なくてもよかった。


 街はまだ穏やかだった。しかし、遠くから聞こえる鈍い音が、少女の胸に小さな石を落とす。誰かが「満州」だの「徴兵」だの口にするたび、胸の奥に冷たい影が忍び込んだ。けれど、目の前の少年の存在が、その影をほんの少しだけ押し返してくれる気がした。


 ある日の放課後、少女は女学校の図書館で本を開いていた。表紙の「ツルゲーネフ」の文字をなぞっていると、隣の席に静かに本が置かれた。顔を上げると、あの少年がいた。


 「……それ、好きなんですか」


 低い声だった。少女は少し戸惑いながらも微笑んだ。


 「ええ。でも、悲しい話です」

 「僕も、そう思います。けれど、読むたびに心が動く」


 その日から、二人の間に小さな会話が生まれた。図書館の窓の外では蝉の声が響き、静かな午後がゆっくりと流れる。


 そんな二人の姿を、担任の村岡先生は遠くから見守っていた。生徒思いで、文学好き。時に厳しく、時に優しく。村岡先生にとって、生徒の心を守ることは、授業の教えよりも大切な使命だった。教室で泣いている子にそっと寄り添い、悩む子に静かに助言を与える。自分の息子は戦地に送られた経験があるためか、戦争という名の影を感じさせることには敏感だった。


 七月のある日、教室に緊張が漂った。授業中、少女がぽつりと呟いたのだ。


 「戦争なんて、いやです」


 教官の顔が怒りに染まり、教室の空気が凍りついた。


 「国に逆らうようなことを言うな!」


 少女はうつむき、唇を震わせた。目の奥に涙が光った。徹は何も言えず、ただ机に手を置いたまま固まった。


 村岡先生は静かに立ち上がり、少女のそばまで歩いた。声は低く、しかし優しかった。


 「澄子、君の心の痛みは、わかる。けれど、言葉には時と場所を選ぶことも大切だよ」


 それだけ言うと、先生は席に戻り、教室の空気は少し落ち着いた。徹はその様子を、胸が痛む思いで見つめた。先生が生徒の心を守ろうとしていることが、はっきりと伝わったからだ。


 その翌朝、電車の中で徹はいつもの席に座った。少女も、乗っていた。視線が合う。しかし、徹は目を逸らした。家で父に「妙な娘と関わるな」と言われたのだ。胸の奥に重たいものが沈む。言い訳をしたかった。でも、できなかった。


 数日後、少女は姿を消した。転校したという噂だけが残った。徹はその後も毎朝電車に乗ったが、もうあの光は差し込まなかった。


 八月の終わり、徹は窓の外に麦わら帽子の影を見た気がした。目を凝らすと、それはただの陽炎だった。けれど、胸の奥に確かに、あの微笑みが浮かんでいた。


 放課後、村岡先生は教室の窓を見上げ、静かに呟いた。


 「どうか、あの子たちの未来が、奪われませんように」


 戦争という大きな流れの中で、何もできない自分に胸を痛めながらも、生徒を守ろうとする教師の祈り。

 それは、過ぎゆく夏の光の中で、淡い初恋と交錯して、静かに胸に刻まれた。


 あの朝、電車の窓越しに交わした視線のぬくもり。

 それが、少年の中で「恋」という名を持つことは、ずっと後になってからのことだった。


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