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6

 

 昼下がりの教室は、午前中のにぎやかさが嘘のように落ち着いていた。

 窓の外では、柔らかい風がカーテンをゆるやかに揺らしている。

 そのたびに光が少しだけ形を変え、机の上に薄い影を落としていた。


 俺は数学の演習プリントと格闘していた。

 内容自体はそこまで難しいわけじゃないけど、数字の並びを見ていると気が散って集中できない。

 いや、正確には――隣にいる月城美琴の存在を意識しすぎて、落ち着かないのだ。


 彼女は普段通りの真剣な表情でペンを走らせている。

 横顔がほんの少し前髪に隠れていて、何度もかき上げる仕草が自然で絵になる。

 そんな姿をちらちらと見てしまい、慌てて目を逸らすのを繰り返していた。


 ――集中しろ、俺。

 そう自分に言い聞かせながら、プリントに視線を戻した時だった。


「……あ」


 手元から、軽い音を立てて何かが転がった。

 消しゴムだ。しかも、机の下に落ちて転がっていく。

 しゃがみ込んで拾おうとしたが、見当たらない。


 困ったな、と顔を上げたその時だった。


「翔くん、消しゴム無くした?」


 月城さんがこちらを覗き込んでいた。

 大きく見開いた瞳と目が合い、思わず息を呑む。

 彼女の視線は真っ直ぐで、しかも距離が近い。


「あ、うん……転がっちゃったみたいで」


 情けない返答をした直後、彼女は小さく微笑んだ。


「これ、使って」


 彼女は自分の消しゴムを差し出してきた。

 白い指先がほんの少し震えている気がして、胸がどきりとする。

 俺は思わず両手で受け取った。


「ありがとう……」


 短い言葉なのに、やけに声が掠れた。

 受け取った消しゴムは、ほんのり温かかった。

 さっきまで彼女が握っていたからだ。

 ただの文房具なのに、胸の奥が不思議とざわつく。


 プリントを消しながら、心臓が落ち着かない。

 ――ただ貸してもらっただけなのに。

 それだけでここまで動揺するのかと、自分で呆れてしまう。


 ちらりと彼女の方を見たら、すでにプリントに集中している。

 だけど、その口元がほんの少しだけ笑っているように見えた。

 ……もしかして、俺の動揺に気づいている?


 授業が終わった後、消しゴムを返そうと声をかけた。


「あの……ありがとう。これ」


 消しゴムを差し出すと、月城さんはにっこりと笑った。


「どういたしまして。……でもね、翔くん」


「ん?」


「今度は無くさないでね?」


 軽くからかうような言い方だったけど、声は優しかった。

 その笑顔に、胸の奥がまたじんわり温かくなる。


 ほんの小さな出来事。

 でも、俺にとっては心臓をざわつかせるには十分な出来事だった。

 それは、ただの貸し借りで終わらない何か――そんな予感を残したまま、その日の放課後を迎えることになった。


 授業が終わると、教室はざわつき始め、あちこちから友達同士の話し声や笑い声が響き渡る。

 窓の外からは午後の柔らかな日差しが差し込み、カーテンを揺らしている。

 そんな中、俺はまだ自分の席に座ったままだった。


 何気なく手にした消しゴムを美琴に返すほんの一瞬のやりとり。

 それだけのことなのに、その場面が頭の中で何度も繰り返されて離れなかった。

 美琴の笑顔や、ささやかな声のトーンが、まるで心の奥底に温かい灯りをともしているみたいに感じた。


 彼女は筆箱を閉じ、何気ない仕草で髪を耳にかける。

 その時、ふと彼女の目が俺のほうを向き、ゆっくりと真っ直ぐにこちらを見つめた。

 まるで何かを伝えようとしているかのように、その瞳が俺の胸に突き刺さる。


「ねえ、翔くん」


 彼女の声は柔らかくて、少しだけ緊張が混じっていた。

 普段の明るくて軽やかな声とは違う、少しだけ特別な響きに思えた。


 俺は自然と顔を上げて、彼女の目を見返した。


「うん?」


 その短い言葉の間に、心の鼓動が早まるのを感じる。

 この先、彼女が何を言うのか、わからないけれど、確かな期待と少しの不安が入り混じった感情だった。


「今日、放課後、少しだけ時間ある?」


 その言葉に、俺の胸がじわりと温かくなった。

 ただの友達としての誘いかもしれない。だけど、心のどこかで、特別な意味を期待している自分もいた。


「もちろん。空いてるよ」


 俺がそう答えると、美琴はほっとしたように微笑んだ。

 その笑顔はいつもの元気さの中に、ほんの少しだけ柔らかな影が差し込んでいるように見えた。


 教室のざわめきは次第に静まり、ほとんどの生徒が席を立っていく。

 残ったのは、俺と美琴だけだった。

 その瞬間、まるで世界がゆっくりと息を潜めたかのように、静けさが二人を包み込む。


 彼女は小さくため息をついてから、少し照れたように言った。


「ありがとう。じゃあ、またあとでね」


 背を向けて歩き出す彼女の後ろ姿を見送りながら、胸がきゅっと締め付けられる。

 このささやかな約束が、これからの二人の距離を少しずつ縮めていくんだと、心のどこかで感じていた。


 席に戻った俺は、深呼吸をして心を落ち着かせようとする。

 けれども、あの笑顔や言葉が頭から離れず、心臓の鼓動はまだ速くて、胸の高鳴りは冷めそうになかった。


 この日差しが差し込む午後の教室で、何気ない瞬間が、こんなにも大きな意味を持つのだと知った。


 これから待っている放課後の時間が、どんなものになるのかはまだわからない。

 ただ、その時間を待つ自分の心は、確かな期待で満ちていた。


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