5
午後の授業が始まってから、どれくらい時間が経ったのだろう。
窓際の自分の席から見える空は、昼と夕方の境目のような淡い色に変わりつつあった。
薄く雲がかかっているせいか、太陽の光は柔らかく、教室の空気全体がほんのりと橙がかって見える。
黒板にチョークが擦れる音が規則的に響き、先生の声がそれに重なる。
その声は淡々としていて、眠気を誘うには十分なリズムを刻んでいた。
時折カーテンがふわりと揺れ、教室の温度をほんの少しだけ下げていく。
俺は机に肘をつき、ペンを握ったままノートを見ていた。
ちゃんと授業を聞いているふりはしているけれど、頭の半分以上は別のことでいっぱいだ。
……隣の席にいる、月城美琴のことだ。
視線をそっと横に流す。
彼女は真剣な表情でノートを取っていた。
長い髪がさらりと肩に落ち、その一房が光を受けて淡く輝いている。
頬にかかる髪を無意識に耳にかける仕草も、全部が一つの絵になっているみたいだった。
――集中しろ。
心の中で自分に言い聞かせ、視線をノートに戻す。
けれど数秒もしないうちに、また視界の端で彼女を追ってしまう。
どうしても目が離せない。
その時だった。
「ねぇ、翔くん」
耳元に小さな声が届く。
驚きで心臓が跳ね、握っていたペンがわずかに震えた。
彼女は前を向いたまま、少しだけ俺の方に身体を寄せている。
周りに聞かれないように、意識的に声を落としているのがわかる。
「この問題、さっきの公式で合ってたっけ?」
差し出されたノートには、解きかけの数式が書かれていた。
俺は慌てて目を凝らし、頭の中で公式をなぞる。
授業中にこんな近い距離で話しかけられるなんて想定していなかったせいで、
思考の半分が吹き飛んでしまいそうだった。
「あ……えっと、うん。合ってると思うよ」
なんとか声を絞り出し、彼女のノートを指さした。
その瞬間、耳の奥が熱くなる。
小声で答えているのに、やたらと自分の声が大きく響いた気がした。
「ありがとう」
月城さんは、ほんの一瞬だけ顔をこちらに向けた。
その目と目が合った気がして、呼吸が一拍遅れる。
彼女のまつ毛が長くて、瞳の奥に光が反射するのが見えた。
その表情は柔らかいのに、どこか距離の近さを意識させてくる。
再び前を向いた彼女は、何事もなかったようにペンを走らせ始めた。
だけど、俺の心臓はまだ落ち着かない。
教室の静けさがやけに鮮明で、自分の鼓動だけが大きく響いているような錯覚さえ覚えた。
――話しかけてくれた。
たったそれだけのことなのに、胸の奥が温かくなる。
これまで何度もしてきた些細な会話と、今の一言は全く同じようでいて、全然違って感じた。
この静かな教室の中で、自分だけが特別に選ばれたような気持ちになっていた。
ペンを走らせながらも、視線は何度も横に滑っていく。
彼女の髪の動きや、肩越しに見えるノートの端まで目で追ってしまう。
そのたびに、また前を向き直り、ノートに視線を落とす。
――集中しろ、と言い聞かせる声も、もう意味をなさなかった。
授業の内容はほとんど頭に入らない。
それでも不思議と後悔はしなかった。
むしろ、この一瞬の出来事を、ずっと忘れたくないと思った。
この日の午後の授業は、ただの数学の時間じゃなかった。
月城さんの小さなささやき声が、俺にとって特別な記憶の始まりになっていた。