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放課後の教室は、いつもの賑やかさが少しずつ薄れていき、残った数人の生徒たちが談笑を終えて帰路につく静かな時間に差し掛かっていた。
翔は自分の席でゆっくりとノートを閉じる。
机の上には、ほんの数分前に美琴が手渡してくれた問題のプリントが無造作に置かれている。
それを見つめながら、翔の胸はいつもより少しだけ緊張していた。
「今日、あの問題をちゃんと説明できただろうか」
頭の中に繰り返し浮かぶその問いに答えを出せないまま、彼はゆっくりと立ち上がった。
隣の席から、明るい声が聞こえる。
「ねぇ、翔くん。放課後、一緒に帰ろうよ」
美琴のその言葉は、彼の胸を強く打った。
胸の奥で期待と不安が激しく交錯し、翔は一瞬その場で立ち尽くした。
「みんなの視線が気になる」
過去の記憶が一気に押し寄せる。
中学時代、誰かと心を通わせる度に襲ってきた嘲笑。
周囲の冷たい視線、遠ざけられる孤独な時間。
「やっぱり、自分は誰とも繋がってはいけないのかもしれない」
そんな思いが、翔の胸を締め付ける。
だが、そのとき彼の目の前にあるのは、美琴のやわらかな笑顔だった。
「翔くんがいるだけで、私、嬉しいんだよ」
その言葉が、彼の中の暗闇をそっと照らした。
「うん、ありがとう……」
わずかに震える声で、翔は答える。
その瞬間、放課後の教室が暖かく包まれた気がした。
二人はゆっくりと校庭を抜けて、並んで歩き始める。
夕暮れの光が、柔らかなオレンジ色に二人の影を長く伸ばしていた。
「今日の授業はどうだった?」
美琴の問いかけに、翔は一瞬考え込む。
「難しかったけど、君が教えてくれたからわかったよ」
小さな声で答えるその言葉には、少しだけ誇らしさが混ざっていた。
美琴は嬉しそうに笑い、自然と彼の腕にそっと手を絡める。
その温かさに翔の胸は高鳴り、同時に過去の不安が囁く。
「俺なんかが、君の隣にいていいのだろうか」
過去の傷が、胸の奥で痛みを伴って再び疼き始める。
だが、美琴はそんな翔の気持ちを察したかのように、優しく彼の腕を握り直した。
「翔くんは私にとって大切な人なんだよ」
その言葉は、まるで真夏の太陽のように彼の心をじんわりと温めた。
二人の歩幅は自然と合い、周囲の視線も気にならなくなっていった。
「美琴と一緒なら、もう怖くない」
翔の胸に、新しい強さが芽生え始めていた。
静かな帰り道。
言葉は少なかったが、その沈黙の中に二人の距離が確かに縮まっていることを翔は感じていた。
家に帰り、部屋の薄暗がりの中でスマホを手に取る。
美琴から届いたメッセージを何度も繰り返し読み返す。
「また一緒に帰ろうね」
その一言が、翔の胸に希望の灯をともす。
夜、布団の中で目を閉じても、過去の痛みが鮮やかに蘇る。
しかし、美琴の笑顔と優しい言葉が、心の深くに静かな勇気を与えていた。
「俺はもうひとりじゃない」
そう呟き、翔はゆっくりと深い眠りに落ちていった。
⸻
日常の中に訪れた小さな変化は、翔の心に確かな波紋を広げていた。
学校の廊下を歩くたびに、彼の視線は自然と美琴の方へ向いていた。
その笑顔や仕草が、いつの間にか彼の心の支えになっていることを、翔自身も認めざるを得なかった。
しかし同時に、過去の記憶は時折顔を出し、彼の胸を締めつける。
「俺は本当に変われるのか」
「誰かを信じて、また傷つくのではないか」
そんな葛藤が、彼の心の中で渦巻き続けていた。
ある日の昼休み、翔は美琴と二人きりで教室の隅に座っていた。
美琴が微笑みながら話しかける。
「翔くん、最近少しずつ話せるようになってきて嬉しいよ」
その言葉に翔は照れくさそうに笑う。
「俺も……美琴と話すのが楽しみなんだ」
だが、その裏にはまだ言葉にできない不安が隠れていた。
「でも、またいつか……」
心の奥で呟くその声を、美琴は感じ取ったのかもしれない。
「大丈夫だよ、翔くん。私はずっとそばにいるから」
その言葉に、翔は目を伏せてゆっくりとうなずいた。
帰り道も、二人は静かに歩いた。
翔の胸の中は、期待と不安でいっぱいだったが、その全てを美琴に預けたいと思う自分も確かに存在していた。
そんな日々の積み重ねが、翔の心を少しずつ変えていく。
孤独だった日常に、新しい色が差し込んでいた。