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朝の教室に差し込む陽射しはやわらかく、まるで何事もなかったかのように校舎の隅々まで染み込んでいた。
しかし、翔の胸の中は嵐のようにざわめいていた。
彼の瞳は窓の外の揺れる木の枝に向けられているが、その視線は焦点を欠き、心は別の場所を彷徨っている。
目の前で動くクラスメイトたちの姿も、声も、笑い声もすべてが遠く、現実感を失っていた。
「昨日、美琴と一緒に歩いた帰り道の景色……あの時間は、本当にあったんだろうか?」
翔は自分に問いかける。
それは現実と夢の境界を彷徨うような感覚だった。
胸の奥に渦巻くのは、不安と期待。
不安は過去の傷がまだ癒えていないことの証明だった。
過去、彼を嘲笑い、遠ざけた誰かたちの冷たい視線と声が、耳の奥で繰り返される。
「また笑われるんじゃないか」
「また裏切られるんじゃないか」
その恐怖が、彼の心を締め付ける。
一方で、心のどこかでは、確かな希望も芽生えている。
「でも、美琴のあの笑顔が、本物だったら……」
「俺はもう、逃げてばかりじゃいられない」
その思いが、わずかに胸を押し広げていく。
その日、授業中に美琴が話しかけてきた。
「ねぇ、翔くん、この問題、わかる?」
その言葉に、翔の心臓は早鐘のように打ち始めた。
顔が熱くなり、喉が渇く。
身体の震えは隠しきれず、声もかすれてしまう。
「う、うん……たぶん、こうやって考えるんだよ」
言葉はつたなく、何度も言葉を詰まらせる。
しかし美琴はじっとこちらを見つめ、柔らかい笑顔を向ける。
「ありがとう、翔くん。本当に分かりやすい」
その優しさが、まるで凍てついた心に温かな火を灯すように感じられた。
休み時間、教室は喧騒に満ちている。
友人たちの声や笑い声、囁き声が飛び交い、翔はその輪に入れずにいた。
机にうつ伏せになりながら、心の中で自問自答を繰り返す。
――俺は、本当にここにいていいのだろうか?
――誰かにとって、俺は必要な存在なのだろうか?
過去の記憶が重くのしかかる。
中学時代に経験したあの冷酷な嘲笑。
無邪気なふりをした言葉の刃が、深く胸をえぐった痛み。
しかし、今は違う。
「美琴が、いるんだ」
その存在が、暗闇の中の小さな灯りとなり、翔を前へと導いている。
午後の授業が終わり、放課後の約束の場所に向かう足取りは重くても、一歩一歩が確かなものに感じられた。
「遅くなってごめんね」
美琴が笑顔で差し出した手を、翔は震える手でそっと握り返す。
その触れ合いは、まるで凍りついた心に春の風が吹き込んだかのように暖かく、翔の胸は高鳴った。
「ありがとう、翔くん」
その言葉に込められた優しさが胸の奥深くまで染み渡り、目頭が熱くなる。
二人で歩く帰り道は、まるで世界が静かに輝いているかのようだった。
美琴との距離が少しずつ縮まるたび、翔の心は揺れ動き、時に戸惑い、時に期待に胸を震わせる。
「今日、授業はどうだった?」
「ちょっと難しかったけど、君のおかげでわかったよ」
ぎこちない会話の中にある温かさ。
その一言一言が、翔にとっては何よりも大切な宝物になっていた。
沈黙もまた心地よく、ただ歩幅を合わせて並ぶ時間が何より尊く感じられた。
家に帰ってからも、翔はスマホの画面を見つめ続けた。
美琴とのやり取りを何度も読み返し、その言葉一つ一つに胸が熱くなった。
「また明日も会えるかな」
期待と不安が入り混じる心。
しかしその不安は、希望の光によって徐々にかき消されていくのを感じていた。
夜、布団に入っても目を閉じることができずにいた。
美琴の笑顔が瞼の裏に浮かび、安らぎと同時に過去の痛みが胸の奥に波のように押し寄せる。
「この気持ちは簡単には消えない」
「でも、逃げてはいけない」
翔は静かにそう誓った。
やがて眠りにつきながらも、心の中に確かな灯火が灯ったことを感じていた。
布団の中でじっと目を閉じても、心は簡単には静まらなかった。
過去の孤独な日々が、鮮やかによみがえり、胸を締め付ける。
友達の輪から外れ、誰とも深く関わらず、目立たぬように過ごしてきた日々。
それは自分を守るための鎧だったけれど、同時に大切なものを遠ざけていたことも痛感していた。
「もう一度、誰かと心からつながりたい」
そんな小さな願いが、胸の奥底で静かに燃えている。
美琴の存在は、その希望の灯火そのものだった。
彼女の優しい笑顔や、自然な振る舞いが、翔にとっては世界のすべてを変える力に感じられた。
「明日も、もっと強くなれる気がする」
翔はそう心に誓い、ゆっくりと目を閉じた。
眠りに落ちるその瞬間まで、彼の心には新たな決意がしっかりと根を張っていた。