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 春の朝――。

 ほんの少し冷たさを残した風が校舎を撫で、開け放たれた教室の窓を揺らす。

 カーテンがふわりと持ち上がり、机の上に置かれたプリントの端をかすかに浮かせてはまた落とした。

 朝日が反射して机の木目を際立たせる。薄い埃の層まで照らし出すような光に、翔はぼんやりと目を細めた。


 教室はまだ完全には静まっていない。

 授業が始まる前の中途半端なざわめき。

 近くの席からは、昨夜のテレビ番組の話題が聞こえ、前方のほうでは部活動の予定を話し合っている声が混じる。

 ペンケースを開け閉めする音、椅子を引く金属の軋み、笑い声――それらが混じり合っているはずなのに、翔にはどこか遠い世界の出来事のように感じられた。


 ――今日も、何事もなく過ぎてくれればいい。

 そう思っているはずなのに、胸の奥が落ち着かない。

 心臓が、ゆっくりとではあるが確かに速くなっている。

 理由は分からない。

 だが今朝、家を出たときからずっと、この違和感がまとわりついていた。


 机に肘をつき、窓の外を見つめる。

 校庭の桜はすでに満開を過ぎていた。

 散り残った花びらと、伸び始めた新芽とが入り混じった枝。

 風が吹くと、花びらがいくつか舞い上がり、光を反射してひらひらと落ちていく。

 その一枚一枚の軌道を目で追いながら、翔は思った。


 ――俺、何をしてるんだろうな。

 ――こんな風に外を眺めて、何か変わるわけでもないのに。


 無意識にため息をつきそうになった、そのとき――


「おはよう、翔くん」


 その声に、胸の奥が一瞬で跳ね上がった。

 鼓動が一拍、強く打つ。

 落としそうになったペンを慌てて押さえ、顔を上げた。


 月城美琴が、立っていた。

 肩まで伸びた黒髪が朝の光を受けてやわらかく揺れ、澄んだ瞳がまっすぐにこちらを見ている。

 表情は柔らかく、自然で、無理のない微笑み。

 それは作り物ではないことが一目で分かる笑顔だった。


 クラス一の美少女――。

 誰もがそう口にする存在。

 勉強も運動も得意で、男女問わず話しかけやすい性格をしている。

 完璧と言って差し支えない彼女が、なぜか今、自分に向かって微笑んでいた。


「お、おはよう、美琴さん」


 声が裏返った。

 自分でも分かるほど緊張した声。

 頬の奥が熱くなっていく。

 翔にとって、女子と日常的に会話することはほとんどない。

 話題を広げるのも苦手だし、何をどう答えていいのか迷ってしまう。

 だからこそ今の状況は、場違いに思えてならなかった。


「昨日の宿題、ありがとう。おかげで助かったよ」


 その言葉に、翔は思わず瞬きをした。

 宿題――そういえば昨日、解答をまとめたメモを貸したのだった。

 それは別に特別なことではなかった。

 ただ、自分がたまたま早めに終えていたから貸しただけ。

 そんな行為を、わざわざ「ありがとう」と言われることが少し不思議で、少しくすぐったかった。


 ――どうして、わざわざそんなふうに言ってくれるんだろう。

 ――俺なんかに。


 胸の奥がざわつく。

 美琴がただ社交的だからなのか、それとも何か理由があるのか。

 もちろん、答えなんて出るはずがない。

 けれど疑いと期待とが入り混じって、言葉が詰まりそうになる。


「え、あ、いや……大したことじゃないよ」


 何とか声を出したが、視線を逸らしてしまう。

 耳の裏まで熱くなるのを感じた。

 それでも美琴は、ほんの少し目を細めて言った。


「でも、本当に助かったんだよ?」


 その笑顔は自然で、無防備で、まるで春の陽だまりのようだった。

 胸の奥が締め付けられる。

 自分のためではなく、ただ「ありがとう」を伝えたいという気持ちがそのまま伝わってくる。


 ――期待するな。

 ――これはただのお礼だ。深い意味なんてない。

 ――……でも。


 そんな自分の中の否定的な声を、今はうまく無視できなかった。


 授業が始まり、教室が静まる。

 先生の声と、チョークが黒板を走る音だけが響く中、翔はノートを取りながらも前方の美琴に意識が引き寄せられていた。

 前の席でペンを走らせる彼女。髪を耳にかける仕草、考え込むように首を傾ける横顔。

 その一挙一投足に目が離せない。

 気づけば授業の内容が頭に入ってこない。


 ――ダメだ、集中しろ。

 ――俺には関係ない。

 ――でも、何で俺なんかに……。


 過去の記憶がよみがえる。

 小学校の頃、少しだけ仲の良かった友達に裏で笑われていたこと。

 中学で、告白まがいの言葉をからかいとして浴びせられたこと。

「期待するから、痛い目を見る」――それは、翔が自分に刻み込んできた教訓だった。


 でも今日は、その教訓が揺らいでいた。

 揺らいでいる自分が情けなくて、それでも目が離せなくて――そんな感情が渦を巻いた。


 休み時間。

 周囲のざわめきが戻ったタイミングで、椅子が横に引かれる音がした。

 美琴が隣に座っていた。


「ねぇ、翔くん」


 名前を呼ばれただけで、心臓が跳ねる。

 周囲の視線が突き刺さる気がした。

 誰かがひそひそ声で何かを言っている。

 それが笑い声なのか単なる興味本位なのかも分からない。

 嫌な汗が背中を伝った。


「放課後、一緒に帰らない?」


 ――時が止まった。

 教室の音が遠のく。

 自分の呼吸と鼓動だけがやけに大きく響く。


 ――どうする。

 ――断ったほうがいい。目立ちたくないだろ?

 ――でも、断ったら……。


 臆病な自分と、ほんのわずかに勇気を出そうとする自分がぶつかる。

 だが答えは一瞬で出た。


「……うん、いいよ」


 美琴の表情がぱっと明るくなる。

 その笑顔を直視できず、翔は思わず視線を落とした。


 放課後。

 二人で並んで歩く帰り道。

 見慣れたはずの道なのに、まるで別世界のようだった。

 夕陽が街全体を橙色に染め、遠くから商店街の声と焼き鳥の匂いが流れてくる。

 その全てが新鮮で、くすぐったい。


「今日はありがとう。翔くんと話せて、嬉しかった」


 美琴の声が耳に残る。

 その笑顔が、胸の奥を温めた。


「僕も……楽しかったよ」


 本音が自然と出た。

 沈黙が訪れる。だがその沈黙は心地よかった。

 夕風が頬を撫で、桜の木からひとひらの花びらが舞う。

 光を浴びてきらきらと回転しながら落ちていくそれを見て、美琴が小さく微笑んだ。


「翔くんって、優しいね」


 心臓が跳ねる。

 優しい? 俺が?

 ただ目立ちたくなくて逃げていただけの俺が?

 驚きと少しの嬉しさと、混じり合う照れくささ。


「美琴さんも……明るくて、話しやすいよ」


 照れ隠しのような言葉しか出せなかった。

 それでも美琴は嬉しそうに笑って、歩調を合わせてくれた。

 その気遣いに、胸がさらに熱くなる。


 家に帰っても、鼓動は収まらなかった。

 シャワーを浴びても、夕食を食べても、頭の中は帰り道での美琴の笑顔ばかり。

 期待するな――そう言い聞かせても、明日が待ち遠しくて仕方なかった。

 布団に入っても目はなかなか閉じられない。

 過去の痛みと、今日芽生えた何かが、同時に胸の中に残り続けていた。


 窓の外、半分欠けた月が淡い光を落としている。

 それは、翔の新しい日常の始まりを静かに照らしていた。

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