記録の鍵
水晶球に映る最後の映像が静かに霧散すると、記録の間に再び静寂が訪れた。
その中心に立つ語り部の身体から、淡く揺らめく銀の魔素がゆっくりとほどけていく。滑らかな仮面の奥には表情は見えない。それでも、その背中からはどこか寂しさ、哀しさのようなものが伝わってきた。
「……我は、長きにわたりこの場所に立ち続けていた」
語り部は、静かに口を開いた。いや、正確にはその思念が空間全体に響く。
「語る者として、記録し、伝える者として。誰も来ない空間で、終わりのない時を過ごした。語るべき者が現れるその時まで、ただ、待ち続けていた」
アヤは目を伏せた。その声にこもった孤独が、胸に染みるように感じられた。
「お前は……人か?」と、レグニスが問いかけた。
「否。私は記録そのものであり、記録の管理者でもある存在。最初は……ただの機構だった。だが……」
語り部はわずかに顔を上げ、仮面の向こうで誰かを見るように静かに告げた。
「何千年も経つうちに、私は“感情”を覚えた。人が笑い、泣き、願う姿を記録し続けるうちに……私は“人に似た心”を持つようになった」
その言葉に、アヤはそっと歩み寄る。そしてそっと語り部の前にひざまずいた。
「ありがとう。あなたの記録があったから、私たちは過去を知ることができた。……そして、未来に向き合うことも」
レグニスも静かにうなずき、その横に立つ。
「お前の望みは……果たされたか?」
しばらくの沈黙のあと、語り部は答えた。
「……否。まだだ」
「なぜ?」
「我が記録の大半は、“悲しみ”と“絶望”に満ちていた。病に倒れた者、戦で死んだ者、互いを呪い、奪い合った歴史ばかり。……私は……楽しい記録が欲しい。笑顔の記録が、欲しかった」
その声には、確かな“願い”があった。記録という存在でありながら、もはや人の心と変わらぬ深い哀愁を帯びていた。
アヤは微笑んだ。そして、そっと水晶球に触れながら言う。
「なら、これからのことを記録してください。……私たちがどんな未来を紡ぐか。今度は、楽しい記録になるように」
語り部の魔素が淡く脈打つ。その魔素はまるで感涙のように揺れ、記録の間に小さな共鳴音を生んだ。
「承知した。新たな記録を受け入れる準備は、整っている」
語り部が静かに告げると、水晶球の下部が音を立てて開き、輝く結晶がせり上がってきた。それは“記録の鍵”と呼ばれるものだった。
「継承者、レグニス・アーガイル。今より貴殿にこの記録の継承を託す。知識は力なれど、扱い方次第で毒ともなる。その覚悟はあるか」
レグニスは黙って手を差し出した。その指先が鍵に触れた瞬間、彼の身体に奔流のような魔素が流れ込んだ。
意識が混濁するような情報の波。それでも、彼は耐えた。魔王として──何より、アヤの隣に立つ“男”として。
すべての情報が流れ終わったとき、レグニスは深く息を吐いた。
「……終わったか」
「はい」アヤが小さく微笑んだ。「……お疲れ様、レイ」
レグニスはその笑顔を見て、小さく目を細める。
「やはり……君がいてよかった」
その言葉に、アヤは一瞬、驚いたように瞬きをした。
「私?」
「君の存在が、俺をここに導いた。君の言葉が、俺の迷いを晴らした。そして、君の想いが……俺に力を与えてくれた」
そう言って、レグニスはアヤの手を取る。
「もう、迷わない。俺は魔王として、この記録を守る。そして、君と共に未来を作る」
アヤはそっとその手を握り返し、頷いた。
語り部は静かにその様子を見つめながら、最後の言葉を告げた。
「継承は完了した。これより先の物語は、貴殿ら自身の記録となる。……願わくば、その頁が、笑顔と光に満ちたものであるように」
こうして、記録の間はゆっくりと閉じられていく。だが、それは終わりではなく──
新たな歴史の始まりだった。
古代の存在との対話が終わると同時に、足元にかすかな振動が走った。
レグニスとアヤが慎重に構えると、石床の一部が静かにせり上がっていく。
音もなく現れたのは、円筒形の筒状の装置だった。古びた魔力紋が表面に浮かび上がっており、その中央には、透明な魔力結界に包まれたクリスタル状の結晶体が静かに収められていた。
「これは……」
アヤがそっとつぶやいた。
レグニスがゆっくりと手を伸ばし、結界ごとその結晶を手に取る。持ち上げた瞬間、わずかな共鳴音が響き、周囲の魔力が一瞬だけ揺れた。
結晶は冷たく、内部から淡く脈動する光を放っていた。まるで生きているかのように。
「……これが、元凶か?」
レグニスが低く問いかける。だが、その声には確信はなく、あくまで可能性の一端を探る響きだった。
アヤが近づいて、結晶とその結界を目を凝らして覗き込んだ。
「結界は……開けられた形跡がないわ。完全に封じられてる」
「ならば、なぜ地上に影響が及んでいる?」
レグニスの声は静かだが、底に焦燥がにじむ。
「結晶の魔素が、何らかの形で地上に伝播しているのか……それとも、似た性質のものが模倣されて地上にあるのか……」
アヤは前世の知識と照らし合わせながら考え込んだが、現段階で答えに辿り着くには情報が足りなかった。
「……いずれにせよ、これ以上ここにいても得られるものは無いわ」
アヤが顔を上げると、レグニスがうなずいた。
「戻ろう……アヤ」
すっかり記憶を取り戻し、いつもの落ち着いた声音に戻っている。
その言葉に、アヤの胸が熱くなる。
さきほどまで、記憶の波に飲まれたために、どこか他人行儀な態度だったと、不安げなレグニスが心配だった。
アヤは笑顔を浮かべると、そっとレグニスの腕に自分の腕を絡めた。
「えぇ、戻りましょう……レグニス」
ふたりは肩を並べ、静かに封印の部屋を後にする。
その背後で、クリスタルを納めていた円筒装置が、再びゆっくりと床へと沈んでいった。
謎はまだ残っている。
だが、それを追い続ける旅の中で、ふたりの間にある絆は、確かに強く、深く、再び結ばれた。




