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語り部

レグニスは封印の前で立ち尽くす。


「……力が……まとまらない……」


 握り締めた拳の中に魔素が奔流のように渦巻くが、それは暴れる獣のように収束せず、ただ拡散していく。

 彼の額には脂汗が浮かび、肩は徐々に震えていた。


(……なぜだ。魔力の流れが乱れている……焦りはない。けれど、制御が利かない……)


 内から湧き上がる力は、まるで意思を持つかのように彼に逆らい、纏まらず、圧し掛かるように身体を蝕んでいた。


 アヤはその様子を黙って見つめ、静かに彼の背後に歩み寄る。足音を立てぬように、まるで風のようにそっと――


「……アヤ……?」


 レグニスの声には、わずかな不安が滲んでいた。王でありながら、思うように力を扱えない焦燥。


 アヤはその背にそっと手を添え、優しく目を細めた。


「私の魔素、……あなたに届けたい」


 彼女の掌から流れ込んだ魔素は、温かく、柔らかく、そして深く、レグニスの魔力の渦に溶け込んでいく。


 けれど――


 その瞬間、封印の紋が不穏な音を立てた。


「ッ……来るな、アヤ――っ!」


 レグニスの身体が光の反発を受け、まるで弾き飛ばされるように後方へ吹き飛んだ。


 岩壁に背中を打ちつけ、そのまま膝から崩れ落ちる。


「レグニス!!」


 駆け寄るアヤ。彼の右腕には深い裂傷が走り、鮮血が衣服を濡らしていく。


「ひとりの力では……開けさせぬ、ということか」


 苦悶の中、彼は唇を噛み締めた。


(王としての資格すら……否定されるのか)


 アヤは膝をつき、彼の腕に手を添える。魔術ではなく、看護師としての手つきで血を止め、包帯を巻いた。

 静かに、しかし芯のある声で、彼女は言う。


「これは、あなた一人で背負うものじゃないわ。……そうでしょう?」


 その言葉に、レグニスは目を伏せたまま、小さく頷いた。

 アヤはそっと彼の手を取る。


「今度は……一緒に、行きましょう」


 ふたりの魔素が、再び重なり合う。

 蒼と紅の光が、互いの体を包み、脈打つように封印紋へと流れ込んでいく。


「……行くぞ」


「ええ、一緒に」


 二人の声が重なった瞬間、封印は応えるように震え、古代の紋様が音を立てて光を放ち始めた。


 ゴォォォン……という低く重い響きが地底に鳴り響き、最奥の扉がゆっくりと開かれていく。

 その光は、まるで地層を照らす太陽のように、奥の空間を照らし出す。


 封印が完全に解かれた瞬間――



 空間全体が一斉に輝き始めた。



 目の前の壁一面に、無数の映像が映し出される。


 時を越えた過去の記憶。光と影。争いと調和。生と死。


 それは視覚だけでなく、音、匂い、感情すらも含んだ「記録」の奔流だった。


「っ……!」


 レグニスが苦悶の声を上げ、額を押さえる。


 アヤもまた、頭を抱えて膝をついた。次々に脳内に流れ込む情報の洪水に、身体が耐えきれず悲鳴を上げていた。


「アヤ……大丈夫か……!」


 震える声でレグニスが呼びかける。


 アヤは息を荒げながら、それでも微笑みを浮かべた。


「レグニスこそ……あなたのほうが大丈夫じゃない……」


 支え合うように手を取り合い、互いの体温を確かめながら、ふたりは意識を集中させる。


 封印が選んだのは、ただ力ある者ではなく、想いを重ねる者だった。


 やがて、奔流のような記憶の波が静まり、映像は一つの光点に収束していく。


 それは、古代の魔族と人族が歩んだ、忘れられた真実。


 千年を超える歴史の断片。


 魔族と人族の誕生、かつて地上に存在した大いなる文明、そして“災厄の根”と呼ばれる存在がもたらした魔核の歪み。


 誰も知らなかったはずの記憶。何者かが“記録し、残した”映像。


 アヤも、レグニスも、言葉を失って立ち尽くした。

 それは、古代の魔族と人族が歩んだ、忘れられた真実だった。

 封印の扉が開かれたその先には、想像を遥かに超えた空間が広がっていた。


 まるで時間そのものが留まったかのような、静謐と荘厳が支配する場所。


 天井は遥か高く、漆黒の空に似た闇が広がる中で、幾千もの星々のように煌めく光の粒が浮遊していた。それらはただの装飾ではなく、記憶の欠片――過去に刻まれた無数の記録が結晶化したものだった。


 中央に据えられた台座。その上に浮かぶのは、ゆるやかに回転する水晶球。

 そして、その水晶球の傍らに佇む一体の存在。


 銀の仮面をかぶり、光と闇を撚ったような外套を身にまとったその姿は、確かに人の形をしているようでありながら、人とは異質な“何か”だった。

 その輪郭は時に揺らぎ、見えたと思えば次の瞬間には溶けるように消えていく。


 そこに立つだけで空間の重力すら変化したかのような、存在自体が異常であることを知らしめる気配。

 だが、不思議なことにアヤは怯えなかった。




「ようこそ、継承者……そして異界の来訪者よ」




 声音は確かに響いた。

 しかし、その銀仮面の奥にあるはずの唇は、ぴくりとも動かない。

 それは音というより、直接脳へ語りかけてくる“意志”だった。


 アヤは息を呑み、無意識に一歩前へ出た。


「あなたが……この場所を守っていた存在?」


「否。我は記録を託された者……“語り部”である」


 その単語に、アヤの中に前世の記憶がよみがえった。

 災厄によって滅んだ文明が残した最後の一人、後世に真実を伝えるために生き延びた者。


 “語り部”。


 その存在の在り方に、アヤはどこか懐かしさすら覚えていた。


 だが、隣に立つレグニスは違った。

 彼の表情には困惑と警戒、そして理解の及ばぬものへの畏怖が浮かんでいた。


 常に冷静であり続けた彼が、まるで荒波に投げ出された船のように、視線を宙に泳がせていた。


 あらゆる常識が通用しないこの空間。

 認識するだけで、ことわりが揺らぎそうなこの存在。


 レグニスは、己の中に生じた“理解できない”という感覚に苛立ちを覚えていた。


「……ここが、すべての起源なのか」


 ぽつりとつぶやいた彼の声は掠れ、魔素の乱れがその輪郭ににじみ出る。

 かつてない規模の魔力領域の中で、自身の力さえ安定せず、身体の深層から痛みがこみ上げていた。


「貴殿の中には、断片だけが残っている。記憶の多くは、我が力の波に呑まれて欠落しただろう」


「……記憶を……取り戻せるのか」


 レグニスの問いに、語り部は淡々と返す。


「真実を語ろう。されば、心は自己を思い出す。だがその代償は、痛みだ。よろしいか?」


 アヤは、そっとレグニスの袖を握った。

 その手のひらは小さく、震えていた。


 それでも、彼女は言葉にせずに伝えた。

 "ここにいる"、"あなたはひとりではない"と。


 レグニスの瞳が揺れる。

 自分は何者だったのか。

 なぜアヤを見て、胸の奥がこんなにも疼くのか。


 記憶は断片的で。だが、確かに彼女に触れるたび、心が何かを思い出そうとする。

 その感覚は、過去に戻るための光だった。


「語れ。俺は知りたい……すべてを」


 レグニスがそう言い切った瞬間、空間が脈動した。

 天井に浮かぶ星々の記録が軌道を描き、幾重もの映像が宙に再生されていく。


 地上に存在したはずの巨大都市群。

 人族と魔族が手を取り合って築き上げた文明。

 だがそこに突如として現れた、"災厄の根"と呼ばれる異形の魔核存在。


 抗えぬ脅威により、世界はゆっくりと壊れていった。

 それを封じるため、命を懸けた者たちが存在した。

 記憶の記録者である語り部も、かつてはそのひとりだったのだろう。


 情報は押し寄せる奔流のように、アヤとレグニスの精神に流れ込んでくる。

 重く、濃密で、正気を保つことすら難しい量だった。


 レグニスは拳を握り締めた。


(アヤを……守らなければ……)


 魔素の揺らぎが身体の芯を切り裂くような痛みに変わりながらも、彼は一歩、前へ出る。


 アヤもまた、疲弊した身体を支えながら、その場に立ち続けた。

 

(これは、……私の世界では、"物語"だった。でも……)


 これは、現実だ。

 私が、今この目で見ている。

 この手で触れて、感じている。


 気づけば、彼女の目から静かに涙が流れていた。


 それは哀しみではない。

 過去を知ることができたという感動。

 誰もが忘れ、葬られた真実に触れたことへの、祈りにも似た感情だった。


 レグニスの視線がアヤに向けられる。

 その視線の中に、ある確信が芽生えていた。


 彼女こそが、自分のすべてを知る鍵。

 断片を繋げる光。


 自分は、彼女と共に在った。

 共に歩み、共に笑い、時に傷つき――それでも、離れなかった者。


「アヤ……」


 その声は、ようやく記憶を辿る者の名前を、心から呼んだものだった。


 アヤは、微笑んだ。

 その笑顔の奥に、長い時間耐えてきた痛みと、今ようやく報われた想いが溶けていた。


 ふたりは、静かに、再び向き合う。

 

 レグニスは彼女を強く抱きしめた。


 記録の間。その中央、静かに揺らぐ水晶球。

 そして、語り部の声が再び響いた。


「継承者よ。記憶は戻り始めた。だが、これは始まりに過ぎぬ」


 ふたりは、頷く。

 すべてを知り、未来を選ぶために――

 

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