前線
──アデルナ王国・前線地域──
突如として現れた魔物の群れ。それはこれまでの討伐記録には見られない規模と速度で辺境地域に迫っていた。
夜明け前、森を抜けた黒影が波のように押し寄せ、地を震わせる咆哮とともに一斉に襲いかかってきた。
魔物たちは通常の個体より大きく、背には棘のような瘴気の結晶を帯びていた。毒素を含んだ爪は、触れただけで炎症を引き起こし、牙に残る黒い魔核の欠片は魔素の腐蝕を拡げていく。
「くそっ……く、来るなっ!」
前衛の兵士たちは必死に槍を振るうが、数の差は圧倒的だった。
一体を倒しても、すぐに次の魔物が跳びかかってくる。
「うわっ……か、噛まれたッ……!」
若い兵士の絶叫が響く。肩口から血が噴き出し、仲間が支えながら後退する。
だが、すぐに別の兵士が後ろから引きずり倒され、腹部を深く裂かれる。
「こっちは腹部を裂かれてる! 早く! 血が止まらない……!」
医術士が駆け寄るも、傷口から滲む魔素に、治癒魔法の効力が薄れていた。
いまや通常の医療処置では手遅れになる状況が、至る所に広がっていた。
「搬送急げ! 通路にでも横たえてでもいい、助けを……っ!」
地面には布を敷き詰めた臨時の寝台が広げられ、テント内は負傷者で溢れていた。
サリアが指示を飛ばし、カルヴァスは次の搬送に備えて血を拭いながら走る。
「ミレイ、トリアージ、もう一度やり直して!」
ミレイは震える手で札を握りしめ、冷たい空気の中で自分を奮い立たせた。
赤は重症、黄は中等度、緑は軽傷、そして黒は……
(今、息があっても……助からないと判断された者には黒い札を)
(非常時には、助かる可能性のあるものに治療を行う。それが非情と取られても、命を救うためには必要な判断)
アヤに教わったその言葉が、彼女の中で重く響いていた。
「……ごめんなさい」
少女のような若い母親に黒い札をかけるとき、ミレイの声はかすれていた。
母親はすでに意識がなかったが、傍らの兵士が泣きながらうなずいた。
「ありがとう……それだけでも……」
彼の言葉に、ミレイは嗚咽をこらえて札を重ねた。
テントの外では魔物の咆哮が続いていた。
応急テントの周囲には防護柵と魔障壁が張られているが、完全ではない。
時折、上空から飛来する魔獣が影を落とし、緊急警報が鳴り響いた。
「空中も来てる! 障壁補強班、前へ!」
イセルタが空に向けて結界を展開する。
彼女の額には汗が滲み、魔力の消費が限界に近づいているのが誰の目にも明らかだった。
「サリア、点滴ライン三番、血圧下がってる!」
「了解、昇圧剤準備!」
周囲では、必死に手を動かす医術士たちの声が飛び交っていた。
だが、どれだけの努力も、すべての命には届かない。
ひとり、またひとりと脈が消えていく。
誰かが叫び、誰かが泣き、誰かが、静かに目を閉じていく。
「ごめんなさい……足りない……私たちじゃ、足りない……」
ミレイが、誰にともなく呟いたその声は、風に消えた。
それでも、彼女たちは動きを止めない。
そこにまだ、救える命があると信じて。
──仮設医療拠点・感染拡大の兆候──
戦場の混乱が少し落ち着き始めた頃、別の異変が報告された。
「この傷……なんだ、発赤が……熱が高すぎる。菌か……?」
「おい、あの子……全身に紫斑……!」
噛まれた傷口からの異常発熱、皮膚の変色。
体温は高熱を示し、意識は混濁、呼吸数は異常に早い。
「感染症の兆候……! このままだと、テント内全体が危険だ」
サリアが口元を押さえながら、動線を変えるよう指示を飛ばす。
「全員、手袋、布マスクを徹底して! 可能な限り、分離を!」
医術士たちは緊急に衛生ゾーンを設け、感染疑いの患者を隔離し始めた。
次々に発熱や紫斑が見つかり、噛傷からの感染が疑われる者が十名、二十名と増えていく。
「やばい、これ……自然感染じゃない。何か仕込まれてる……」
カルヴァスが唇を噛み、報告を記録に残す。
誰の顔にも、疲労と焦燥が色濃くにじんでいた。
だが、誰一人として、手を止めようとはしなかった。
この地獄の中でも、命を繋ぐ――その一点だけが、彼らの拠り所だった。
──アデルナ王国・王都──
王宮執務室の机上に、数枚の急報が叩きつけられた。紙に滲んだ赤い斑点は、現地の血痕が染み込んだ痕だ。
「また……また増えている……?」
レオンハルト王の額には深い皺が刻まれ、握った拳が机上をきしませる。報告によれば、辺境の野営地だけでなく、近隣村落にも感染が広がり始めていた。
“魔獣による咬傷”、そしてその後に現れる“発熱・紫斑・呼吸不全”。
「魔核由来の感染……か?」
参謀の一人が恐る恐る呟いた。
王は頷くでもなく、黙して次の報をめくる。討伐部隊の第二班が全滅寸前で撤退、搬送された傷病者の過半数に異常症状あり。中には意識を失ったまま、皮膚が黒変してゆく者も含まれていた。
「王よ。早急な隔離措置と、防疫機構の再編が必要です。通常の疫病対応では……間に合いません」
重々しい声が執務室に響いた。医術院長のフィオレンが立ち上がる。
「すでに衛生班を再編し、城下の広場に臨時の防疫拠点を設置します。だが、この症状……明らかに“魔核”が触媒となっている。自然発生ではない可能性が極めて高い」
「では、“意図された拡散”ということか」
「……はい。敵がいるなら、それは人ではない何かでしょう」
静寂が落ちた。王都中の鐘の音が、まるで忌まわしい時代の再来を告げるように響いていた。
──魔王国・大城壁都市グラヴァル──
一方、魔王レグニス・アーガイルもまた、同様の報告に囲まれていた。
「東境界線より警報。ル=グリュ村が“沈黙”したと。避難誘導隊が入れず、空からの偵察で廃墟と確認されました」
「“沈黙”か……」
報告を聞いたレグニスの目は、鋭く光る。
「ヴァシュタールの進軍は?」
「すでに第一陣を派遣。が、途中村で“未知の症状による倒壊者”多数あり、進路変更を余儀なくされています」
レグニスは即座に手元の通信珠に手を伸ばした。
「《第三防疫研究所》を呼べ。上席主任のノルド=ザレムを直ちに繋げ」
しばらくして、淡い蒼光が珠から浮かぶ。小柄で痩身の老魔族が映った。
「……陛下。これは、まさか」
「“まさか”かどうかを確認したい。過去、魔核起因で大規模な感染災厄が発生した記録があったな。数百年前の『灼灰記録群』だ」
「……ええ。紀元前の“魔核感染災禍”。生存者が国土の三割以下に落ち込んだという……」
「詳細を。すぐに」
ノルドは無言で数枚の文献を浮かび上がらせた。その古文書には、禍々しい黒い印が刻まれている。
『魔核より漏出する粒子状魔素は、ある種の“生体媒体”を通じて増幅し、空気感染を誘発する』
『初期症状は発熱、紫斑、感覚異常。末期には魔素に同調し、暴走するか、肉体が崩壊する』
そして、最大の記述が続いた。
『この時代、魔族・人族ともに手立てなく、死者は両国あわせて人口の七割に至った』
静寂が落ちた。
「……再来か」
レグニスの声は低く、それでいて凍えるような響きを持っていた。
「この魔核型感染は自然由来ではない。何者かが封印を破り、過去の災厄を再現しようとしている」
「……対処法は、ありませんでした。当時の文献には、拡大を止めた記録も対抗策も、残されていないのです」
「ならば、俺たちが初めての“防衛”を成す」
レグニスは席を立ち、玉座背後の魔導盤に手をかざした。そこには魔王国の全領域が浮かび、魔素の流れが揺れていた。
「各研究所を連携させろ。ノクス=フィアとの回線も開き、アヤの資料群と照合。あの者なら、きっと“突破口”を見つける」
「了解。……陛下、お願いです。魔素汚染が王都に達した時には、最悪の想定も……」
「わかっている。その時は――俺が、この国を“封じる”」
重く、覚悟の滲む言葉だった。
──アデルナ王国・再び──
王都では、民間レベルでも防疫が始まり、街の入り口は全て封鎖された。
だが、誰もが思っていた。
「これが、最後の備えになるのではないか」と。
そして、最初の“咆哮”が再び聞こえたとき――
歴史は再び、その惨禍の名を刻もうとしていた。




