医術士として
帝都カストリアの外縁に位置する王宮付属の賓客宿舎。その一室、魔王国代表として訪れたレグニス=アーガイルが滞在している部屋は、外部からの視線を避けるよう配慮された特別仕様であり、室内は仄かな灯りと魔術的結界によって、常に静穏を保っていた。
アヤは、その部屋を訪れる前に、会談控室でひとつの封筒を手渡されていた。
渡したのは、魔王レグニスの腹心にして側近であるリュシアン=ヴァルゼイル。彼は相変わらず表情に乏しく、無言でアヤにその手紙を差し出した。
『会談後、部屋で待つ。――レグニス』
署名には「レグニス・アーガイル」ではなく、アヤにしか伝わらないように、簡素に「レグニス」とだけ記されていた。
アヤは、それを胸元にしまうと、深く息をついて足を進めた。
──会談は無事に終わった。
──エドワールの冷徹な表情の裏に見えた、かすかな謝意。
──レオンハルトの静かな視線。
どれもが、アヤの胸の中に、重く残っていた。
そして今、アヤはレグニスの部屋の前に立ち、軽くノックをした。
「……入って」
中から聞こえたのは、よく知る落ち着いた声。
扉を開けると、そこには控えめな灯りの中、椅子に腰掛けていたレグニスの姿があった。
いつも通りの黒衣に身を包み、長い髪を背に垂らし、手元の書類に目を通していたが、アヤが入るとすぐに視線を上げる。
「来てくれてありがとう、アヤ」
レグニスは、ゆっくりと立ち上がり、机の向こうから歩み寄ってきた。
「会談、お疲れさま。……無事に終わって、何よりだった」
「ええ……なんとか、ね」
アヤは微笑みながらも、どこかまだ緊張が抜けきらない様子だった。だが、その目の奥には確かな安堵が宿っていた。
「君に伝えたいことがある」
レグニスは、そう言ってアヤの正面に立ち、真っ直ぐな視線を向けた。
「私はこのまま“レイ”という医術士の名で帝国に滞在することにした。表向きは、君の体調の管理と医療連携の補佐。だが、本当は……君の傍にいたい」
「レイ……」
アヤはその名を小さく繰り返し、目を伏せた。
「君の身体は、まだ万全ではない。魔素の影響も残っているし、神経毒の後遺症も完全には癒えていない。回復には時間がかかるし、無理をすれば再発する可能性もある」
レグニスの言葉には、魔王としての冷静さと、ひとりの男としての真剣な想いの両方が込められていた。
「だから、私はこの地に残る。帝国内での医療支援、そして君の身体のために。もちろん、魔王国からも許可は得てある。だが……本当の理由は、もっと単純だ」
アヤが顔を上げた。その目に、彼の真意が映る。
「私は、君の傍にいたい。どんな立場でも、どんな場所でも。君が望む限り……いや、望まなくても、君が困っているなら、私はそばにいる」
その告白に、アヤは息を呑んだ。
胸の奥に、かすかに熱が広がる。
彼の想いは、まっすぐで、言葉に飾りがなかった。
「……ありがとう」
アヤは小さく微笑みながら、その場に立ったまま彼を見つめた。
「けれど、私は……今はまだ、レグニスとしてのあなたと、レイとしてのあなたを、どう受け止めていいのか、整理がついていないの」
「それでいい。私は、待つ」
レグニスは一歩、彼女に近づく。
「君が決めるまで、私はただ、傍にいる」
その言葉に、アヤはほんの少しだけ頬を染めて目を逸らした。
(ずるいなぁ……私)
心の中で呟く。
灯火の静かな揺らめきの中、二人の間に流れる沈黙は、心地よい温度を帯びていた。
――会談の翌日
帝都カストリアの一角にある帝国王立医術局の交流棟にて、アヤは王国・魔王国から招かれていた医術士たちと再会を果たした。
広々とした講堂には、ミレイやサリア、カルヴァス、セイランの姿が揃い、それぞれが安堵と喜びの表情を浮かべていた。
「アヤさんっ!」
最初に駆け寄ってきたのはミレイだった。彼女はいつものように勢いよくアヤの両手を握り、涙ぐんだ瞳を向けた。
「無事で……ほんとうに、よかった……!」
アヤは笑みを浮かべ、ミレイの手を優しく包み返す。
「心配かけたわね。みんな、元気そうで何より」
サリアも穏やかな微笑を浮かべながら近づき、カルヴァスは照れ隠しのように咳払いをした。
「まったく……暗殺未遂なんて、派手な話をしでかしてくれる」
「私も、巻き込まれただけなんだけど……」
アヤは肩をすくめながらも、どこか照れたような表情を浮かべた。その背後では、少し離れて見守っていたセイランが、静かに口を開いた。
「貴女が戻ってきたこと、そしてこうして話せることが、何よりです」
彼の言葉に、アヤは深く頷く。
「ありがとう。……それで、今日はみんなに大事な話があるの」
全員の視線が集まる中、アヤは声の調子を変えて、やや真剣な表情になった。
「昨日の会談で、私は皇帝エドワール陛下に、帝国の持つ医療技術――特に『細菌培養技術』や『隔離施設の設計』、『衛生区域の確保』について、技術交流を進めさせてほしいとお願いしました」
一瞬、空気が静まりかえる。
「その交渉の中で、私はある人物を、大使として任命したいと申し出ました。帝国、王国、そして魔王国を繋ぐ医療連携の顔として……」
そこで一拍置き、アヤはセイランの方へと視線を送った。
「それが、セイラン=ヴァルメルさんです」
全員の目が、驚きと共にセイランに注がれる。
セイラン自身も目を見開いていたが、すぐに背筋を正し、軽く会釈した。
「……その責務、重く受け止めています」
アヤは微笑み、再び全体に向き直った。
「ただし、皇帝からの正式な布告が出るまでは、この件は“内密”です。誰にも話してはいけません。わかりましたね?」
皆が真剣に頷く。
「それまでの間、私たちは視察の名目で帝国の各施設を回ります。グループに分かれて動き、それぞれが学んだこと、気付いたことを共有して、技術理解を深めましょう」
カルヴァスが腕を組みながら頷く。
「帝国の設計思想や動線配置、魔法との併用技術……見るべき点は山ほどあるな」
ミレイも目を輝かせた。
「私は培養施設を見てみたいです! どうやって菌の分離と安定を保ってるのか……」
サリアは柔らかく微笑んだ。
「帝国の民にとっても、私たちの存在が希望のひとつになれば、嬉しいですね」
アヤは頷いた。
「そして……今回の滞在中には、帝国市民に向けた医療活動もスケジュールに組み込まれています。王国・魔王国それぞれの医術を、一般市民にも届けることで、国を越えた理解と信頼を築いていくのが目的です」
静かな決意を帯びたその言葉に、場の空気が引き締まった。
「本格的な活動は、皇帝の布告が出てからになります。それまでの期間は、準備と視察、そして学びの時間です。皆さん、自分にできることを精一杯見つけてください」
一同は、それぞれ真剣な面持ちで頷いた。
こうして、帝国における新たな医療交流の胎動は、静かに始まろうとしていた。
アヤの胸にも、新たな責任と希望が芽生えている。
この手で繋ぐ、命と技術、そして信頼の橋を――確かに渡すために。




