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声を届ける日

──魔王国・王都〈ディア=グレイヴ〉 特別療養区画──


 重ねられた手の温もりが、微かに震えていた。

 それが、感情によるものなのか、疲労によるものなのか――アヤには、もう区別がつかなかった。


 ただ、今、レグニスが目の前にいて、自分の手を包み込むように握ってくれている。それだけで胸の奥に、確かな安堵が広がっていた。


 静寂の中、淡い光が壁に影を落とす。

 魔王の張る特別な結界の中――そこは、外界の時間すら遮断された、二人だけの空間。


 レグニスは、そっと視線を下ろしながら言葉を紡いだ。


「君に、伝えなければならないことがある」


 アヤはうなずき、じっと彼の顔を見つめた。


「今回の治療で……私は、魔王としての魔素を直接君に注いでいる」


 その言葉は、決して軽いものではなかった。


「それって……」


 アヤの口からこぼれた言葉は、問いにも、驚きにも似ていた。


「君の体質に、影響を与える可能性がある。人という種の枠を、少しだけ越えるかもしれない」


 レグニスの声は静かだった。しかしその奥には、責任と苦悩が滲んでいた。


 アヤは視線を落とし、自らの手を見る。

 その指先には、以前にはなかった感覚が微かに宿っている気がした。自分の内部を流れる魔素の質が、確かに何か変わってしまった――そんな感覚。


 鼓動のリズム、血の流れ、呼吸の深さ。

 全てが微かに、けれど明確に、これまでと違っている。


 だが、アヤの顔に浮かんだのは、怯えではなかった。

 彼女は小さく目を閉じ、静かに、深く息をついた。


 そして、やわらかく微笑む。


「それで、助かったんでしょう? だったら……それでいい。命をもらったんだから」


「……アヤ」


 レグニスの声が震えた。


「君に、何の説明もなく……魔素を注いだ。君の意思を無視して……勝手に、命を救った」


 彼の言葉には、苦悩が滲んでいた。

 命を救うことすら、時に“重荷”になり得ると彼は知っていた。

 異なる種族に属する自分が、彼女にとって不可逆な変化を与えてしまった。


「許されることではない。……私は、君の意志を、踏みにじってしまったかもしれない」


 アヤは首を横に振る。

 その瞳には、涙が浮かんでいた。


「違うの。あなたは……私の命を守ってくれた。あの瞬間、あなたがいなかったら、私は……」


 言葉を途中で切り、アヤはレグニスの手を自分の両手で包み込んだ。


「私は医術士だけど……患者を助ける時、すべての人に“今から助けてもいい?”なんて訊いていられない。命がかかっている時には、即座に判断して、行動するしかないの。あなたがしてくれたのは、まさにそれ。……私には、責める理由なんてひとつもないわ」


 レグニスはその言葉を聞いて、ゆっくりと目を伏せた。

 そして、ほんの少し、肩の力を抜いた。


「君がそう言ってくれるなら……私は、少し救われる」


 そして彼は、そっとアヤの右手を取り、手のひらに唇を添えた。


 まるで、その命に誓うように。

 彼女を守ると約束するように。


 アヤは驚き、頬を赤らめた。


 けれど、拒まなかった。

 その温もりが、どれほど真剣な想いの上にあるかを知っていたから。


「……ありがとう、レグニス」


 その名を、初めて穏やかに呼ぶ。

 呼び捨てでも、気遣いの言葉でもなく――まるで、心から信じる相手の名を呟くように。


 レグニスは言葉を返さなかった。ただ、深くうなずき、アヤの手をもう一度、両手で包み込んだ。


 結界の外では、時が流れていた。

 けれどこの瞬間、二人だけの世界は、穏やかに息をしていた。


 種族を越えても、魔素に変化が起きても――この想いは、決して揺るがない。


 そう信じられるだけの、強さと優しさが、今、二人の間にあった。




──医療回復棟──


 淡い陽光が差し込む回廊を、ゆっくりと二人の足音が刻んでいく。


 アヤはレグニスに手を支えられながら、壁に取りつけられた木製の手すりに手を添え、一歩ずつ歩いていた。

 神経毒による痺れは未だ完全には癒えていない。特に右足の膝下には力が入りにくく、時折ふらつくこともあった。


 だが、それでもアヤは歩こうとしていた。

 リハビリの指導者であるレグニス──いや、いまは魔王としてではなく、ただの彼として傍らにいてくれる彼に支えられながら。


「無理は……していないか?」


 低く、穏やかな声が肩越しに届く。

 アヤは小さく息を吐いて、ゆっくりと首を振った。

「大丈夫。少しずつ、感覚が戻ってきてる。足先まで神経が通ってるの、ちゃんと分かるもの」


 それを聞いたレグニスはわずかに口元を緩め、彼女の手をそっと包むように握り直した。


 今の彼にとって、それがどれだけ安堵をもたらすものか。

 アヤは、その手の温もりから感じ取ることができた。


 歩行練習を終えて、回復棟の奥にある中庭のベンチへと腰を下ろしたアヤは、汗を拭いながら空を見上げる。




 「時の価値.....か」

 過去のレイと同様に甲斐甲斐しくアヤの世話を行うレグニスがふと呟いた。

「……ねぇ、レグニス」

「ん?」

「“声を届ける日”って、どういうものなの?」


 アヤがそう問いかけると、レグニスはやや驚いた表情を見せた。


「聞いたのか、あれを」

「うん。回復棟に戻る前、付き添ってくれた医術士の子たちが話してたの。……皆が、私のことを言ってくれてたって」


 レグニスは数秒、黙してからゆっくりと口を開いた。



◇◇


──魔王宮・謁見の間 午後


 月に一度、魔王レグニス=ファルグリムが広く魔族の声を聴くと定めた日。その日は、魔王国全土から首長たちが魔王宮へと参集し、王の前に進み出て、それぞれの陳情と意見を直接述べることが許されていた。


 黒曜石の床に長く映る影。磨き抜かれた柱の間を、儀礼に則って進むその姿は、いずれも誇りと緊張を纏っていた。


 玉座には、漆黒の装束を纏い、真紅の瞳を静かに光らせる魔王・レグニス。傍らに控える近衛の姿も、今日ばかりは距離をとり、主と客との対面を尊重している。


 「次、通せ」


 低く、しかし威厳を宿した声が謁見の間に響く。


 最初に進み出たのは、緑の外套に包まれた老エルフ。深い森の長、ミルディス=イラリオスである。


 「我らは、貴方に信を置いております、魔王レグニス殿。貴方が選ばれた方――“医術士アヤ”殿にも」


 言葉の端に、慎重な響きがある。


 「だが一つ、案じていることがあります。我らエルフは、長命の種族……ゆえに、時の隔たりという残酷を幾度も見てきました。彼女が“短き時の舟”にある者ならば、貴方が未来を託すその想いも、やがて時と共に……」


 言い終えぬまま、ミルディスは伏し目がちに黙した。


 レグニスの表情は変わらない。

 だが、静かに一言だけ返した。

 「知っている」


 その声は、どこか遠い記憶に触れるようだった。


 「それでも……それでも“今”を選び、手を伸ばし、想いを交わした者がいたのなら。儚くとも、それは真実であり、誇るべき“絆”だと、私は思っている」


 ミルディスは静かに頷いた。深く、礼をとる。


 「ならば、この老いた木の枝も、貴方の未来を守る風除けといたしましょう」


 それは、精霊族としての盟約に等しい言葉だった。


 続いて、赤銅の角を額に戴いた鬼人族の戦首――ゴルダ=ザランが前へ進む。


 「魔王様、我らの集落は、ノクス=フィアの連携体制に大いに助けられております。……だが、正直に言えば、人間との接触を恐れる者もまだ多い。先日の騒擾のような事がまた起これば、若者たちの中には――」


 言葉を切り、ゴルダは拳を握る。


 「復讐を求める声も、出てきかねません」


 レグニスは頷く。


 「その怒りは理解する。だが怒りは剣であり、炎でもある。手綱なき炎は、味方すら焼く」


 「……心得ます。ゆえにこそ、魔王様のお力で、共に未来を描く場を作り続けてほしい。我ら鬼人族も、矜持と力でそれを支えましょう」


 次いで進み出たのは、白銀の毛並みを持つ獣人――草食系の族長であるラーファ=ユン。


 「農耕区域における医療支援物資、拠点経由で届いております。感謝を申し上げます」


 朗らかに述べつつも、ラーファは少し表情を曇らせた。


 「ただ……同胞の中には、“肉食系”の獣人との不和を引きずる者もおり、共同の村づくりに難色を示す声もあります」


 「分断はかつての遺産。だが、今この地にある法は“魔族”という一つの名だ」


 レグニスの言葉に、ラーファは耳を伏せた。


 「はい……その御言葉、若き者たちに伝えて参ります」


 対して、肉食系の獣人族の代表が強く声を上げる。


 「レグニス様、俺たちは争う気はありません。ただ、力を持つ者は、時に畏れられる。それを知っているからこそ、俺たちは先に手を差し伸べたい。だが、同胞を喰らう獣と見なす者がいまだに――」


 「ならば、その牙を守るために使え。咬むためでなく、咆哮するために」


 レグニスの言葉に、獣人の代表は大きく頷き、拳を胸に当てた。


 最後に進み出たのは、長身で漆黒の礼装に身を包んだ、人型の高位魔族・貴族階級の筆頭、ゼルアーク=ファルサミア。


 彼は一礼の後、薄く笑みを浮かべたまま言う。


 「魔王陛下。貴方が“医術士アヤ”殿に深く心を寄せておられるのは、王都の一角にまで伝わっております」


 その言いぶりに、場にわずかな緊張が走った。


 レグニスのまなざしが細くなる。


 「……続けよ」


 ゼルアークは肩を竦める。


 「我ら貴族階級の中にも、陛下の未来に関心を寄せる者は多くあります。“異界の者”に与える比重があまりに大きければ、古き秩序を尊ぶ声が反発を強めるのもまた、自然の道理かと」


 「忠告か、忠義か、それともただの観察か?」


 「すべてを少しずつ、とでも申しましょうか」


 含みをもった笑みに、レグニスは答えなかった。ただ、一歩だけ玉座から下り、間を詰めて見せた。


 「ならば、見ておけ。私が“何を選ぶか”を。そして、アヤがこの地に“何をもたらすか”を」

 ゼルアークは浅く頭を下げると、退いた。


   ◇


 謁見が終わった後も、レグニスは玉座に戻らなかった。

 高窓から射し込む日光が、漆黒の衣を縁取って黄金に照らす。

 その胸奥に去来していたのは、先ほどミルディスが語った“寿命の違い”に他ならなかった。


 ――わかっている。それでも、今を選び、生きると決めた。


 “だからこそ、見届けたい”。


 彼は静かに、宮廷文官のひとりを呼び寄せる。


 「帝国からの招待状は?」


 「間もなくノクス=フィアへ届く手はずにございます。アデルナ王国、ならびに我が国からの医術士団との接触も調整中です」


 「……ならば、準備しておけ。アヤがどう動くにせよ、我らが“守る”意思を示すときだ」


 その声に、文官は深く頷いた。


   ◇


 謁見の間を去る首長たちは皆、心のうちにある想いをそれぞれの言葉で胸に刻んでいた。


 レグニスという王の在り方。

 アヤという存在の意味。


 それらが、ただの希望ではなく、“確かな選択”として存在していることを。

 そして、たとえ時が有限であろうとも、共に歩む意志がある限り――


 “時の価値は、永遠に等しい”と。



 ――医療回復棟


 「そんなことを.....。皆さんが」

少し照れながら、アヤが声を発した。

 「“声を届ける日”は、我が国に古くから伝わる儀式だ。自らの想いや感謝、誓いを、魔力と共に空へ放つことで届かせる。本来は祖霊や亡き者への祈りが主だが、……今は、君への感謝が集まっていた」


 アヤはその言葉に、思わず目を見開いた。


「私、なんて……そんな……」


「君は、救った。それも、命を懸けて。魔族である彼らにとって、種族を超えて“命を助けてくれた者”の存在は、想像以上に重い意味を持つ」


 アヤは戸惑いながら、少し頬を染める。


「それで……あの、誰かが……その、私のことを……好き、とか……言ってたの?」


 その問いに、レグニスは小さく喉を鳴らした。


「……ああ。言っていたな」

「わ、忘れて……」


 耳まで赤くなって俯くアヤに、レグニスは微笑を浮かべながらも真摯に言葉を重ねた。

「だが、想いとはそういうものだ。どれだけ距離があろうとも、伝えたいという意思がある限り、声は届く。 ……私も、そう信じている」


 その言葉に、アヤの胸がふわりと温かくなる。


 レグニスの手が、自分の右手を静かに包んだ。

 その感触はどこまでも優しくて、けれど芯の通った力強さを帯びていた。


「君の痺れが完全に取れるまで、私がリハビリを支える」

「うん……ありがとう、レグニス」


 アヤは微笑みながら彼を見上げた。

 だが、その視線の中には、これまで意識しないようにしていた“何か”が芽生えていた。


 彼の手の温もり。

 彼の声の響き。

 自分のために結界を張り、魔素を注ぎ、命を繋いでくれたその事実。


(私は……この人のことを)


 気づいてしまった。

 心の奥で、静かに、けれど確かに膨らんでいく感情。


 それは、医術士としての感謝ではない。

 一人の女性として――ひとりの、彼に惹かれている人間としての、想いだった。


 その瞬間、レグニスがふいにアヤの手にそっと唇を寄せた。


「……君が、ここに居てくれるだけで、私は報われる」

 その柔らかなキスに、アヤの顔は真っ赤に染まった。


 けれど、拒む気持ちはなかった。

 レグニスを見つめ返しながら、そっと微笑んだアヤは、彼の手を握り返す。


 声を届ける日。

 それは、遠くの誰かに想いを伝えるためのものだったはず。

 だが今、こうして手の中にある温もりは、

 どんな遠くよりも、誰よりも、確かにここにあった。



 ──想いは、届いている。

 静かな中庭に、風の囁きが優しく流れていった。

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