レオンハルトの出撃
──アデルナ王国・王城 執務の間──
朝靄の中を駆け抜ける伝令の足音が、石畳に鋭く響いた。
王城の執務の間に届いた急報は、レオンハルト=アデルナ王の胸を凍らせるに十分だった。
「……アヤが、帝国内で毒矢による暗殺未遂……?」
報告を読み上げる侍従の声が震えていた。
だがそれ以上に、沈黙したレオンハルトの表情には、激しい怒りと深い動揺が刻まれていた。
手にした書簡が、小さく震える。アヤの名が、そこに記されていた。
『帝国・王都エレグラードにて、公式視察の最中、毒矢による襲撃を受け、意識不明』――
「誰の……企てだ」
絞り出すような低い声。その瞳には、冷え切った炎が宿っていた。
彼女が、命を賭して立った地で。
彼女が、民の命のためにその身を投じた地で。
なぜ、命を狙われねばならなかったのか。
なぜ、自分はその傍らに居られなかったのか。
レオンハルトは、報告書を机の上に叩きつけた。
「出る。騎士団を集めろ」
「は、陛下……?」
「名目は“帝国に滞在中の王国医術士団の保護”だ。帝国と開戦するつもりはない。
だが、我らの民に手を出した以上、無視はできぬ」
重々しい声が、部屋中に響き渡る。
「……内政干渉の意図はない。だが、我らは我らの誇りに従って動く」
──
数刻後、王宮の南門から、王直属の親衛騎士団が帝国方面へ向けて進軍を開始していた。
その先頭には、銀鎧に身を包んだレオンハルトの姿があった。
沈む太陽がその背を照らす中、馬上の彼の瞳は、一点を見据えていた。
──
その日の夜、帝国方面より一人の影がレオンハルトの陣営に現れた。
魔王国より密かに派遣された伝令であった。
深紅の封蝋には、魔王レグニス・アーガイルの名と紋章が刻まれていた。
レオンハルトは、誰もいない幕舎の中でその書状をゆっくりと開封する。
『アヤ殿は現在、魔王国・王都〈ディア=グレイヴ〉にて治療中。
帝国側の建前として、彼女は“帝国宮殿内の特別療養室にある”と発表されている。
容体は予断を許さぬ。使用された毒は強力で、明確な致死性を持つ神経毒である。
現在、魔王国最上級の医術士を動員し、私自らが時の結界を張って延命を図っているが、予断を許さない。
皇帝エドワール殿は、真の標的がアヤ殿であることを承知の上で、“自らを狙った毒矢”と偽装している。
この偽装は、帝国内部の膿を一掃するために不可欠な手であり、現に数名の重臣と貴族が粛清された。
アヤ殿の身は、我が国において必ず救う。
この書状の存在は、貴殿の御胸の内にとどめられたく願う。
――レグニス・アーガイル』
手紙を読み終えたレオンハルトは、沈黙の中、しばし視線を落とした。
長く息を吐き、やがて顔を上げる。
「伝えてくれ。アヤを頼む。医術士の保護については、我が責任において遂行する」
伝令は深く一礼し、夜の闇へと消えていった。
数日後、アデルナ王国の騎士団が帝国へ到着した。
その表向きの目的は、「帝国に滞在中の王国医術士団との合流および研究施設視察」であった。
だが実態は、帝国内における監視と、医術士団の安全確保、そして──
皇帝エドワールとの非公式会談。
帝国皇宮・静謐の間。
対面した二人の王。
一人は、若き王国の王。もう一人は、老練な帝国の支配者。
エドワールは静かに口を開いた。
「アヤ殿の件……我が帝国の顔に泥を塗るようなこととなった。陛下に、謝罪を申し上げたい」
「……正式な場でなくとも構わん。ただ、誠意を見せてほしい」
レオンハルトの声は低いが、芯のある響きを持っていた。
「すでに我が帝国では、関係する貴族と重臣に粛清が及んでいる。アヤ殿を害そうとした者たちは、もはやこの私に仕える資格すらない」
その言葉に嘘はなかった。
エドワールは、己の手で帝国の膿を排除していた。
「……命は、戻らない。だが、まだ彼女は生きている」
「それが、我が国の最後の希望だ」
長い沈黙ののち、エドワールはひとつだけ頷いた。
「帝国医療研究区の視察についても認めよう。同行は近衛兵に任せる」
「礼を言う。だが、我らは形式に囚われない。必要とあれば、現場の判断で動く」
「構わぬ。我が帝国も……彼女に対し、誠意を尽くすべき時が来たのだろう」
──
数日後、王国の視察団が帝国内の医療研究施設を視察し、滞在していた王国医術士たちを全員保護。
その一連の行動は一切騒ぎ立てられることなく、帝都内では“通常の外交行為”として扱われた。
だがその裏で、帝国と王国の関係性は、かつてないほど複雑に、そして密接になり始めていた。
レオンハルトは最後にもう一度だけ、帝都の空を仰いだ。
そこに、かつて自分と並び立った女性の姿が浮かんだ気がした。
(……アヤ)
彼女に再び会える事を信じ――彼は再び、王の道を歩み出した。
<アヤの意識回復>
──魔王国・王都〈ディア=グレイヴ〉王宮・回廊結界内部──
光を歪ませたような静寂の空間。そこは、外界の時の流れとは隔絶された“時操りの術式領域”だった。
その中心、ふかく沈むような魔術床の上。アヤは薄い呼吸を繰り返しながら横たわっていた。
術式を張り続けるレグニスの顔には、長時間の魔力消費による明らかな疲労の色が滲んでいる。だが彼は、その一切を表に出すことなく、アヤの掌を優しく包み込むように握っていた。
「もうすぐ……時間を戻す。あとは、彼女次第だ」
周囲には、魔王直属の医術団の面々が術式調整を続けていた。
通常の時の流れを約五分の一に抑えたこの空間では、アヤの身体への毒の浸透を可能な限り遅らせることで、解毒と再生を同時に試みていた。
「魔王陛下、時操作術式の緩和に入ります。肉体的耐性は十分、意識回復が期待されます」
淡く光る符文が空中に溶け、次第に“加速”の気配が戻ってくる。
レグニスは深く頷いた。
静かに魔力を解除すると、空気の層が一枚剥がれたように音も匂いも戻ってきた。
アヤの瞼が、わずかに震える。
その瞬間、レグニスの肩がほんの僅かに緩んだ。彼は微笑を湛えたまま、深い声で呟く。
「おかえりなさい、アヤ」
医術団の一人が小さく頷き、全員がその場で一礼して静かに退室する。
この空間に、今はもう二人しかいない。
アヤの意識は、まだ朦朧としていた。
けれど、徐々に視界が明瞭になり、呼吸も安定してくる。
――まずは確認。
アヤは医療者としての本能で、自らの状態を探った。
心臓の鼓動は落ち着いており、肺の収縮も滑らか。
肝臓、腎臓、循環系統……明確な異常はない。毒素の残滓はほとんど排出されている。
かすかに握られた右手。
そこから伝わる熱と、深くて静かな魔素の流れ――それが、彼女を生かしてくれていたことを理解する。
ゆっくりと、アヤは右手の指を動かした。
そのわずかな動きに反応し、レグニスがそっと顔を寄せた。
「……レイ……」
「ここにいる。ずっと、君の傍にいた」
アヤは微笑もうとするが、まだ頬が強ばっている。
「……あのとき……角を……」
「握っていた。君は無意識に、魔術を展開しようとしていた。解毒に向かう、確かな意志だった」
アヤは目を伏せ、かすかに息を吐いた。
「……苦しくて、目の前が真っ暗で……でも、誰かの腕に抱きとめられているような感覚が残っていて……」
「それは、私だ。君を離すつもりは、最初からなかった」
その声は、いつもの凛然たる魔王のものではなく、静かで優しく、どこまでも柔らかかった。
「ありがとう、レイ。……あなたが、そこにいてくれて……」
レグニスはゆっくりと、彼女の右手を両手で包むと、そっと唇を寄せてその手に口づけた。
「私は、君を必ず守ると決めた。
どんな闇が訪れようとも、その灯を手放しはしない」
そのしぐさ、その言葉に、アヤの頬がかすかに赤らんだ。
胸の奥が、ふっと温かくなる。
ずっと張り詰めていたものが、緩んでいく。
(生きてる......)
アヤの瞳から涙が零れそうになる。
それをレグニスの指先がそっと拭った。
アヤはその手に右手を重ね、その手の温もりに改めて生きている事を実感した。
今は二人きりの時間が静かに流れていった。




