解毒薬のない猛毒
──帝国・王都〈エレグラード〉王宮中庭──
雲ひとつない青空のもと、王宮の中庭には数百人の観衆が集まっていた。
外交の一環として催された「医術連携記念式典」。その中心には、帝国皇帝エドワールと、アデルナ王国および魔王国、両国の代表である医術大使アヤの姿があった。
演説は滞りなく進み、帝国の威厳を示す厳かな楽団の演奏が鳴り響く。
エドワールが壇上を降り、歩を進める。
「アヤ殿、遠路の来訪、感謝する」
堂々とした声に応えるように、アヤもまた一歩前へ。
互いに微笑みを浮かべ、そして――
握手。
その瞬間だった。
空を切る、鋭い風音。
観衆の誰もが、何が起きたのか理解するより早く、それはアヤの腕を掠めていた。
細身の矢。
銀の矢羽が光を反射し、地面に突き刺さる。
「……っ!」
アヤの表情が一変した。
掠っただけ――そう思えた。だが。
彼女の身体が、崩れるように膝をついた。
白衣の袖に、血と共に黒ずむ痕。
「アヤ殿!?」
ざわめきが一気に爆発する。
彼女の呼吸が急速に浅くなり、唇が蒼白になる。瞳が虚ろに揺れ、足元に崩れ落ちる。
(……まずい、これは……神経毒……)
意識の奥でそう結論づけたとき、すでに彼女の全身は痺れ、動かなくなっていた。
喉が鳴らない。肺が重い。心臓の鼓動が、遠くなる。
殺意。
それは確かに自分を狙っていた。
「静まれっ!!」
怒号に似た声が、会場全体を凍りつかせた。
帝国皇帝・エドワールの声だった。
「医術士を、アヤ殿の手当てを!……そして、この不届き者たちを捕えよ!!」
そのとき、彼はふと視線を逸らし、矢の着弾地点を見やる。
ゆっくりと、あくまで冷静に呟いた。
「余を狙った毒矢か……無礼な……」
その言葉は、まるで本当に自分が標的だったかのように振る舞うことで、アヤを敵視する者たち、そして《黒曜》を欺く意図が込められていた。
号令とともに、衛兵たちが動き出す。
群衆の中へ駆け出す影。逃走を試みる者たちに刃が向けられ、次々と取り押さえられていく。
その混乱のなか、ひとりの医術士が駆け寄った。
銀髪の男。
その腕がアヤを抱き上げた瞬間、彼女の指がわずかに動いた。
(……レイ……?)
彼女はそう思ったが声にはならなかった。
次の瞬間、銀の残光が舞う。布幕の裏へと彼は消える。
瞬間転移――魔王国の高等魔術式。
その場にいた誰もが、その者の正体を知ることはなかった。
──魔王国・王都〈ディア=グレイヴ〉 医術殿・緊急治療区画──
厳重な結界が張られた石造りの治療室。中央の寝台には、アヤが横たわっていた。
顔面は蒼白、冷汗が頬を伝い、喉から洩れる呼吸はか細く苦しげだった。
レグニス・アーガイルは、アヤの傍らに膝をつき、両手で彼女の手を包み込むように握っていた。
「アヤ……もう大丈夫だ。絶対に離さない」
魔王である彼は、自らの魔素を強制的に変換し、アヤの全身を特殊な魔術領域で包み込んだ。
それは“時の遅延領域”──この空間に置かれた者は、外界に比べて遅い時間軸を生きることとなり、毒の拡散も遅延される。
それにより、アヤの命はギリギリでつながれていた。
「禁術領域、安定しました!」
「術式展開、毒素分解開始!」
魔王国の上級医術士たちが次々と術式を展開する。レグニスの呼吸は乱れ、その額に汗が滲む。禁忌の魔術――それは自らの生命力を、他者に与える行為。
有効な解毒薬は無い。
やがて、診察を終えた長髪の医術士が一歩下がり、言葉を発した。
「……おそらく、アヤ殿が意識を保ったまま、初期段階で毒に対して魔術を展開されていたのでしょう。自らの体内で抵抗を図った痕跡があります。それがなければ……」
彼は深く頭を下げた。
「……一命は取り留められなかったかと存じます。まこと、驚嘆すべき意志力です」
レグニスの手は、微かに震えていた。
アヤの手は冷たく、細い。
「……許さない」
低く、凍てつく声で、彼は呟いた。
「誰であろうと、アヤを傷つけた者を……決して許さない」
──帝国・帝都──
その夜、皇帝エドワールの執務室に、重厚な封書が届けられた。
魔王国からの密使が手ずから持参したという。
封を解くと、簡潔ながら重みのある文が記されていた。
『アヤ殿は魔王国にて治療中。無事とは断言できぬ。
この事実を、公には一切漏らさぬこと。
我が名において誓う――我々は、彼女を守る。』
末尾に、魔王レグニス・アーガイルの署名と印。
エドワールはしばらくそれを眺めていたが、やがて無言で手を閉じ、書状を握り潰した。
書状の紙が軋む音が、執務室の静寂に響いた。
「……動いたか、“黒曜”」
静かに立ち上がり、窓の外に視線をやる。
「毒矢は余を狙ったものだ。そう記録せよ」
それは命令ではなく、確定事項として放たれた言葉だった。
彼の戦略は既に始まっていた。
帝国の重臣たちの多くは、自分たちがこの帝国の中枢であり、皇帝は儀礼的な存在にすぎないと慢心していた。
黒曜との通じ合い、裏金の流通、秘密の実験、果ては魔王国との裏交易まで……。
それらを、エドワールはすべて把握していた。
知らぬふりをしていただけだ。
だが、アヤの命が狙われた今、その仮面は不要となった。
「内なる膿を、今こそ断ち切らねばなるまい」
冷たい声が空間を切り裂いた。
翌朝、帝都に鐘が鳴り響く。
それは、祝典でも訃報でもない――処断の合図。
帝国全土で一斉粛清が始まった。
関係者の屋敷には早朝から黒衣の近衛兵が殺到し、剣と鎖で封鎖される。
多くの高官が目を覚ました瞬間に寝台の横に刃を突きつけられ、叫び声を上げる間もなく連行されていく。
「待て!これはどういうことだ!我々は皇帝の忠臣だぞ!」
「話せばわかる!私は命じられていただけだ!」
そのような声は、冷酷な沈黙の中に吸い込まれていった。
かつて栄華を誇った上級官僚たちの表情は、みるみるうちに青ざめ、頬が引きつり、目の焦点が定まらなくなっていく。
彼らは信じていたのだ。
この帝国では自分たちこそが“支配者”であり、皇帝は飾りにすぎないと。
その幻想が、真実の前に脆く崩れた。
地下牢に並べられた彼らの顔には、もはや誇りも虚勢も残っていなかった。
ある者は涙をこぼし、ある者は歯を鳴らし、またある者は意味不明の独白を繰り返すだけだった。
冷えた鉄床の上、罪状の記された札が一つずつ並べられる。
『毒素開発の主導者』
『密輸計画の資金源』
『黒曜との通謀』
帝国情報機関の記録は完璧だった。
処刑台は血に染まり、声無き叫びが帝都の空に溶けていく。
エドワールは玉座の間にて、何一つ表情を変えずその報告を聞いていた。
「陛下、旧軍統制局長補、排除完了。黒曜からの流通線はすべて断たれました」
「続けよ」
わずかに頷いたその横顔に、感情の色は一切なかった。
容赦のない粛清。
冷酷無比な制裁。
それこそが、皇帝エドワールの真の姿。
帝国がなお帝国たりうるための“必要”であり、“正義”.........。
神経毒:コブラやフグなどが持っている猛毒。神経に作用するため、手遅れになると生命活動が停止します。意外な生物が毒を持っていたり......怖いです。




