見抜く瞳
──帝国・王都〈エレグラード〉西端区域──
乾いた風が砂混じりの香りを運ぶ。魔法障壁に守られた帝国の研究区域。その一角に、かつて一般には公開されていなかった施設があった。
帝国医療技術研究所――。
アヤはアデルナ王国から派遣された護衛の医術士二名に付き従われ、視察団の一員としてその重々しい扉をくぐった。
「ここが……病原性生物や、毒性物質の研究棟ですか……」
言葉を濁すアデルナの医術士に代わり、帝国側の研究主任が淡々と答える。
「はい。魔物討伐のための生体研究、そして有毒種への対応策の開発が主目的です」
だが、アヤの眼は別のものを映していた。
防護ガラスの向こうに、ぎらつく鱗を持つ魔物の標本があった。神経毒を分泌する管を持つ甲虫。神経系を破壊する海棲生物。複雑な枝状構造を持つキノコ胞子。
そして、彼女の視線が止まったのは――
「……ヤドクガエル?」
小さな容器の中に、まるで宝石のように色鮮やかな生物がいた。
全身を覆う皮膚腺から分泌されるアルカロイド毒。
それは前世で、南米の少数民族が“吹き矢の毒”として用いた猛毒だった。
記憶が蘇る。かつて病院で読んだ文献。処置が遅れれば呼吸停止に至るその危険性。彼女の口の中に、かすかな鉄の味が広がった気がした。
(これを……戦いに使う?)
目を逸らせなかった。
隣の部屋には、培養されたウイルス群。遺伝子組み換えにより、潜伏期間を調整された菌株。皮膚接触型の麻痺毒。
どれもが、人間の身体にとっては“確実な死”をもたらすものばかりだった。
冷たい汗が背筋を伝う。心臓が、ゆっくりと、しかし重く打ち始める。
帝国側の案内人が笑顔で言った。
「これらは、すべて魔物に対抗するための“守り”の技術です」
だが、アヤにはわかる。
これは“殺す”ための技術だ。
生かすための医術ではない。
彼女はかすかに手を震わせながら、それでも歩を止めなかった。
更なる部屋には、気体毒の噴霧装置、強酸の射出器、皮膚浸透型毒素の携行兵装など……戦場使用を前提とした“殺戮のための医療技術”が整然と並んでいた。
(……これは、威嚇だ)
ただの視察ではない。これは、明確な意図を持って「見せつけられている」もの。
最後の部屋に通されたとき、アヤは確信した。
──これは、試されている。
“お前は、これを見てしまった”
“私たちは、いつでもお前を葬れる”
それだけではない。
アヤがどれだけの知識を持ち、どれほど正確に毒物を見抜けるか――帝国はそれを探っていた。
その無言の脅しと観察。
理性で飲み下しても、身体が先に拒否していた。
(私は……ここで……殺されても、おかしくない)
護衛の一人が小声で囁く。「アヤ殿、お顔が青い。すぐに引き返しましょうか」
「いいえ……大丈夫です。少し、暑さに当てられただけよ」
嘘だった。
鼓膜の奥で、自分の心音がやけに大きく鳴っている。
息が浅い。指先が冷える。顎が微かに震えている。
その日の夜、視察団は王都の迎賓館に戻された。
アヤは個室の窓際で、そっと水の入ったグラスを持ち上げる。
氷が揺れる音だけが、静寂を破る。
毒――。
それは命を奪う“手段”であるだけでなく、恐怖を刻む“言語”でもあった。
「あなたがここにいる間は安全です」
帝国の役人はそう言った。
だが、アヤは理解していた。
それは“あなたが何もせず、何も語らなければ”という条件付きだ。
この帝都において、アヤの命が“保障された存在”でないことを、彼女は骨の髄まで思い知っていた。
自分の身に毒が回る感覚すら、幻に感じられるほど。
──この世界では、知ることさえ命を賭ける。
アヤは水を飲み干し、そっと自分の胸を押さえた。
明日、再び帝国中枢との会談が予定されている。
その場に、笑顔で立てるだろうか。
──だが、逃げるわけにはいかない。
「命を救う」
そう掲げたはずの自分が、恐怖だけで立ち止まってはいけない。
今この瞬間も、帝国内の片隅では、命の救いを待つ者たちがいる。
アヤはゆっくりと立ち上がった。
そして、鏡の前で、少しだけ唇を引き結ぶ。
(私は、見た。
ならば、それを“記録”として残す。
あの研究棟で見たすべてを、誰かに繋ぐために)
それは、命を救うための“記録魔法”の起動。
アヤの指先から淡く光が広がり、心の奥に焼き付いた風景を一つ一つ転写していく。
記録魔法はただの情報保存ではない。
記録者の意志と感情が魔力に乗って封じられる、まさに“真実の遺稿”だった。
──“殺す技術”を、“守る者”が見抜いた。
その瞬間、帝国はアヤにとって、“平穏の地”ではなくなった。




