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歩みの先に、あなたがいるなら

──ノクス=フィア 拠点・中庭 夕暮れ


 空が金と群青のあいだを彷徨う頃、アヤはひとり、診療棟裏の中庭に立っていた。

 かすかに揺れる草の香り、遠くで響く若者たちの笑い声。つい昨日まで荒れていた拠点に、ようやく“日常”が戻りつつあることを、五感が教えてくれる。


 アヤは胸元の文書を握りしめていた。

 アデルナ王国からの正式な辞令――中央医術評議会参与としての任命状。


 封を切った瞬間から、胸の奥が痛んでいた。

 それは誇りであり、責任であり、期待でもあった。

 だが同時に、それらは彼女に「決断」という名の重荷を静かに乗せてくる。


 レオンハルトの筆跡は、どこか淡く、それでいて迷いのない文字でこう添えられていた。


《君が選んだ道を、私は否定しない。ただ、王国の命もまた、君を待っているということを――忘れないでほしい》


 その言葉は優しさであり、呪縛でもあった。


 拠点の回復は、思いのほか早く進んでいた。

 ミレイは、もう患者の前で震えずに話していた。

 サリアは、村人の輪に溶け込み、魔族の若者と冗談を交わす姿を見せていた。

 彼らは、確かに育っていた。


 「私がいなくても、この拠点は動く」


 そう思った瞬間、胸の奥にぽっかりと空洞が広がった。

 それは喪失ではなく、解放に近い痛みだった。


 “なら、私は――どうしたい?”


 アヤは己に問う。


 いつも、誰かのために動いてきた。

 患者のために。国のために。仲間のために。

 けれど今、はじめて訪れた“空白”の時間が、自分自身という存在を見つめ直す余白を与えてくれた。



 そのとき、背後に確かな気配があった。



 振り返ると、レグニスが立っていた。

 漆黒の衣をまといながらも、その瞳はただ静かで、優しかった。


 「……会議の返事は、まだ出していないのか」


 「ええ。どうしても……言葉にできなかったの」


 アヤはゆっくりと、ベンチに腰を下ろした。

 彼もそれに呼応するように、斜め前に立ち、彼女を見つめる。


 「この場所は、誰かの命のためにあると思っていた。でも……」

 アヤは静かに息を吐く。

 「私はずっと、“誰かのため”にしか生きてこなかった」


 「それを悔いているのか?」


 「少しだけ。でも、それだけじゃない」


 自分の心が、言葉を探していた。

 揺れ動く想いの中で、ただ一つ、確かに思った。


 「もし“自分のために生きる”という選択の先に、誰かを救える未来があるのなら……それって、悪くない」


 レグニスは、彼女の隣に座らなかった。

 代わりに、そっと彼女の視線と同じ高さに立ち、同じ空を見た。


 「アヤは、いずれ王国へ帰ると思っていた」


 「そうなるかもしれない。でも、私は選びたい。誰かに言われてじゃなくて……自分で、選びたいの」


 その言葉の芯には、燃えるような静けさがあった。


 「私は、まだこの場所に“立っていたい”。

 それを、自分に言えるようでありたい」


 レグニスは短く目を伏せ、再び彼女を見つめる。


 「アヤは、迷いながらも歩いてきた。

 その足跡が、誰かを導いてきたことを――忘れるな」


 夕焼けが彼の黒衣を淡く染め、アヤの白衣に金の縁取りを添える。

 対極のような色合いが、不思議な調和を見せていた。


 「ねぇ、レグニス」


 「……なんだ?」


 「もし、私の歩く先に、あなたがいたら……そのときは、隣に並んでくれる?」


 レグニスは少しだけ目を閉じて、そして答えた。


 「アヤが歩くのなら、私は“先にはいない”。

 だが、アヤが立ち止まったとき、振り返れば、そこにいる。

 それで良ければ――私は喜んで、傍にいる」


 その声には、どこまでも真っ直ぐな温もりがあった。

 剣も王も超えた、“ひとりの男”としての言葉だ。


 アヤは、静かに微笑んだ。


 「それで、十分」


 胸の奥にある不安は、消えてはいなかった。

 けれど、その不安を抱えて生きていく勇気を――彼はくれた。





 その夜、アヤは正式に王国へ「返答を保留する」と伝えた。

 それは拒絶でも承諾でもない。


 ――ただ、“まだこの拠点に立ちたい”という、彼女自身の選択だった。


 医術士としてではなく、王国の一員としてでもなく。

 “アヤ”という一人の人間として、彼女は初めて、自分の居場所を選んだ。

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