護る剣
──ノクス=フィア 拠点診療棟前・夕刻
火は上がっていなかった。
それでも、人々の怒りと恐れは、炎に似た熱を帯びて渦巻いていた。
「なぜあの魔族の子どもが先に治療を受けた!?」
「うちの祖父は人間なのに後回しだ、命の重さをどう考えてる!」
「結局、共存なんて綺麗事だったんだ!」
それは“襲撃”というほど整った破壊ではない。
だが、“暴走”というにはあまりに理路が通っていた。
――誰かが煽っている。
それだけは、誰の目にも明らかだった。
診療棟前に人だかりができ、投石が始まった。
薬品庫の窓が割れ、サリアが前に出て手を広げる。
「やめてください! 私たちは、治療するためにここにいる!」
「お前たちの“治療”が誰かを殺すんだろうが!」
言葉が弾け、群衆の中でひとりがナイフを抜いた。
ミレイが駆け寄り、サリアを庇うように立った。
「やめて……! あなたたちだって、誰かを助けたいって思ったこと、あるでしょう!?」
その言葉に、短い沈黙があった。
だが、その刹那、群衆の中から投げられた石がミレイの額を裂いた。
「――ッ!」
ミレイが倒れる。
その瞬間、アヤが前に出た。
医療用クロークを脱ぎ、ミレイの上に覆い被さるようにして叫ぶ。
「私たちは、武器を持たない。
治す者が、誰かを傷つけてしまえば、それは“医術”じゃなくなるから!」
誰かが「退け!」と怒鳴った。
けれど彼女は退かない。
砕けた石が、彼女の背に当たり、血が滲んだ。
……そのときだった。
空気が、変わった。
ず、と地を這うような魔力の気配。
陰る空。群衆の奥で風を巻いた外套が翻り、一人の男が現れた。
漆黒の外套。瞳に夜の色を宿した男――魔王レグニス。
群衆がざわめく。
「……まさか……本人……!?」
「“王”が……来るわけがない……!」
だがレグニスは、確かにそこにいた。
そしてゆっくりと、その背から黒銀の剣を抜いた。
「この剣は、命を奪うためのものではない。
私は王である前に、一人の魔族として、ここに立つ」
剣の刃が、日を反射した。
「……お前たちが“恐れ”によって誰かを傷つけようとするなら、
私は“怒り”によって、それを止める」
沈黙。
誰かが震えながら後ずさった。
誰も剣を向けられていないのに、その気配が“罰”として人々を縛っていた。
レグニスは剣を振らなかった。
ただ、地面に突き立てた。
「誰も死ぬな。誰も殺すな。
この地を“命の地”と定めたその約束に、我は立つ」
群衆は、やがて崩れるように散った。
残されたのは、傷ついたミレイを抱えるアヤと、その傍に剣を置いたレグニス。
「……間に合って、よかった」
レグニスが呟くと、アヤはふっと笑った。
「……あなたは、いつも“ぎりぎり”に現れるのね」
レグニスもまた、笑った。
「ぎりぎりのほうが、守るべきものがはっきりする」
その日、“王が剣を抜いた”という噂は、
拠点のすべてに、静かに、しかし確実に広がっていった。
朝が、来た。
まだ空は灰色の薄靄に包まれていたが、その奥に確かに赤い光が差し始めていた。
夜を越えたのだ。
燃え落ちた倉庫の残骸からは、いまだに細い煙がくゆっていた。
焦げた薬箱、破損した担架、焼け残った木材の影――。
それらは惨事の記録であり、しかし同時に、“再生の始まり”でもあった。
その空の下で、ひとり、またひとりと白衣の影が動き始めていた。
ミレイは包帯を巻いた額を気にしながらも、カートを押していた。
そのカートには、消毒薬、包帯、診察道具と記録板――。
昨日までは当たり前だった“医療の風景”が、今日はまるで違って見えた。
すれ違う村人たちの視線。
それは恐れではなく、わずかに、ほんのわずかに、“信頼の端”に引っかかった眼差しだった。
昨日なら向けられなかった目線――今日なら、受け止められる気がした。
「痛み、ないの?」
ふいに声をかけてきたのは、サリアだった。
彼女もまた、長い夜を越えて、目元に疲れの残る笑みを浮かべている。
「痛いです。……頭も心も、正直、怖いです」
ミレイは立ち止まり、深く息を吸った。
「でも、先生が守ってくれたから。……だから今度は、私が守ります」
その言葉に、サリアは短く頷いた。
「あなた、もう“現場の顔”してるわね」
その声には、わずかな誇りと、寂しさが滲んでいた。
二人の視線の先、拠点の中央ではアデルナ王国と魔王国からの支援物資が次々と運び込まれていた。
破損した診察台を担ぐのは、アデルナ王国の青年兵士と魔族の若者。
医薬品の箱を並べるのは、村の女性と診療補助を志す魔族の少女――。
そこには、言葉こそ少ないが、確かに「共に働く姿」があった。
人種も立場も違う。だが今、この場所では、同じ方向に手を伸ばしていた。
その頃、仮設執務室では、レグニスがアデルナ王国からの連絡文を読み終えていた。
外套を脱ぎ、髪を束ね直し、机に肘をついて考え込む。
その瞳に宿るのは、王としての冷徹ではなく、“誰かを生かす場”を守ろうとする者の眼差しだった。
「輸血保存装置、王国から再提供されるって。早かったわね」
扉を開けて入ってきたアヤが、報告の代わりに微笑んだ。
白衣の袖口には血痕と薬品の染みが残っていたが、顔には疲労よりも、静かな達成感があった。
「レオンハルトは、“待つ”ことには慣れているが、“止まる”ことは嫌うからな」
レグニスは手紙を畳みながら、口元だけで笑った。
「ふふ、あの人らしいわね……」
アヤはそのまま、窓の外に視線を移す。
柔らかな朝の光が、拠点を照らし始めていた。
「ねぇ、レグニス」
「……」
「この拠点って、本当に“意味のあるもの”になると思う?」
その問いに、レグニスは即答しなかった。
アヤと同じ方向の、窓の外を見やる。
サリアが村の老婆に膝をついて問診を取り、
ミレイが魔族の子どもに処置を施している。
言葉は交わさずとも、誰かの背中を追い、誰かを信じて働く若き姿。
レグニスは静かに言った。
「……“なろうとしている”と思う」
「……」
「まだ未完成で、歪んでいて、きれいごとと揶揄される程度の理想だろう。だが、その兆しがある限り――意味は、後から必ずついてくる」
その言葉に、アヤは小さく頷いた。
胸の奥で、何かがほどけるように思った。
「……朝が来るって、こういうことかもね」
彼女はゆっくり言葉を継いだ。
「夜の中では、意味なんて見えない。でも、光があれば……いつか、全部照らせる」
彼女の白衣が、朝日を受けてわずかに金に染まっていた。
その時、外から歓声が上がった。
診療棟の正門に、新しい看板が掲げられたのだ。
――ノクス=フィア(夜を越える者たち)医術連携拠点
命に、国境はない。
その前に、若き医術士たちが立ち並んだ。
血が流れ、心が裂け、命を選ぶたびに苦しんだその日々の先で、
彼らは、誰に言われるでもなく、静かに手を胸に当てて、誓った。
「傷つくことを恐れず、護ることを選ぶ」
「違いを学び、拒まず、受け止める」
「この地を、“命を繋ぐ場所”として、私たちが築く」
言葉に力は込めずとも、確かにそれは届いていた。
――それは戦ではない。
ただひとつ、“生きようとする者たち”の――静かな決意だった。




