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火のないところの煙

──ノクス=フィア拠点・第二区診療棟


 その患者は、昼過ぎに搬送されてきた。

 名前はカルド。中年の魔族男性。軽度の胸痛と微熱という初期症状だったが、診察室に入ってから五分と経たず、異変が起きた。


 「……ッ、あ……あああッ……!」


 突然、魔力の波動が乱れ、術具が軋む音を立てる。

 カルドの体表に黒い筋が浮かび、魔紋のように全身に広がっていった。


 ミレイが反射的に下がる。


 「これ……魔素過敏反応!? でも、治療魔術はほとんど使っていないはず――!」


 隣にいた魔族医術士のセイナが叫んだ。


 「待って、これは……ただのアレルギーじゃない。魔力の“拒絶”反応よ! 何かが、彼の魔素を壊してる!」


 カルドが咆哮に似た声を上げて暴れ出す。

 診察器具が吹き飛び、酸素瓶が倒れ、若手医術士のひとりが吹き飛ばされて壁に叩きつけられた。


 誰かが叫んだ。

 「暴走だ! 拘束魔術を――!」


 「だめ!」

 その声を遮って入ってきたのは、アヤだった。


 彼女は防護衣もつけず、患者の前に立った。


 「……カルドさん、私を見て。苦しいのはわかる。でも、これは病気。あなたのせいじゃない」


 激しい魔力の渦の中、アヤはその腕を伸ばした。

 誰もが止めようとしたその時――


 「痛いのは、あなた。だから、怖がらないで」

 その一言とともに、アヤの手が、カルドの額に触れた。


 瞬間、異様な魔力の渦が収束し、患者は昏倒した。


 ――沈黙。


 その後、カルドは無事に回復に向かった。

 しかし、診療棟では連日、軽度ながら似た症例が増え続けていた。

 中には同時発症も起き、若手スタッフたちは混乱を極めていた。


 「先生、また同じ症状の人が……三人同時に運ばれてきました!」


 「回復魔術が効かないんです!逆に悪化してるような……」


 アヤは額に手を当て、冷静に対処しようとするが、疲労の色は隠せなかった。

 片目にだけ浮かんだ赤みは、魔素の過剰使用による反動だった。


 「……私が診るわ。ミレイ、記録を、セイナ、補助お願い」


 それでもアヤは一人ひとりの容体を確認し、丁寧に診察を続けた。

 震える患者の手を取り、異常な魔素の流れを読み、緊急処置を施す。

 それは“対症療法”に過ぎないと知りながらも、目の前の命を見捨てることはできなかった。


 その夜。


 診療棟の奥、アヤの執務スペースに灯るランタンは消えかけていた。


 「……魔族の一部に、王国側で使用された医術成分が“異常反応”を起こしている。

 これでは“同じ治療法”が通用しない。だけど、違いを理解しきれてないから、予防もできない」


 書きかけの診療記録に震える指先でペンを走らせながら、アヤは小さくつぶやいた。


 「……このままじゃ、また誰かが……」


 そこへ、静かに扉が開いた。


 「……もう、十分だ」


 その声に顔を上げると、そこにはレグニスの姿があった。


 「だめ、まだ記録が……」


 「アヤ」


 名を呼ばれるだけで、肩の力が抜けた。


 「……少しだけ、座ってくれ」


 強引ではない。だが、拒めない声だった。

 アヤは椅子に身を預け、ようやく自分がどれだけ疲れていたかを知る。


 「混成の壁だな」


 レグニスがランタンに灯を足しながら、静かに言う。


 「“理解できていない相手”を、治すという行為――それがどれほど困難か、やっと始まったということだ」


 アヤは頷いた。


 「……理屈の上では知っていた。でも、こうも無力感が突きつけられるなんて。

 私たちは“違いを超えた理想”を掲げて、でも今はまだ、現実に追いつけていない」


 そのとき、サリアが入室し、短く報告する。


 「今日、村の商人が“魔族の治療は控えてくれ”と暗に申し入れてきました。

 ……拠点内で、不信が静かに広がっています」


 アヤは目を閉じた。


 これが“理想の地”を築くための第一の試練。


 レグニスがふとアヤに近づき、手を差し出した。

 「君がここまで来た理由は、現実を受け入れるためだったんじゃない。変えるためだ」


 「……変えられるかな。私なんかに……」


 「変えられる。俺はそう信じてる」


 レグニスの声は、夜の静けさに溶け込むように優しかった。

 その手をアヤがそっと取ると、指先が触れただけで、胸の奥が温かくなった。


 (この人は、私の弱さごと見てくれている)


 言葉にできない想いが、胸を満たしていく。


 「ありがとう、レグニス」


 アヤの声は、どこか震えていた。

 だがその目は、もう迷っていなかった。


 誰かの支えに、ようやく素直に感謝できる強さ。

 そして、そこに芽生えた感情は、淡く、確かに“恋慕”と呼べるものだった。


 その不調の連鎖が、やがて“仕組まれた火種”であることに、まだ誰も気づいていない。

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