表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

63/104

ノクス=フィア

──中立地帯・フェリア盆地の村


 霧のかかる盆地を、二台の馬車がゆっくりと進んでいた。

 周囲は、湿り気を帯びた草木と古い石壁が連なるだけの静かな風景。しかし、馬車の中には、それぞれの思惑を胸に抱く視察団の面々が乗っていた。


 魔王国の山岳地帯とアデルナ王国の国境地帯に挟まれたこの土地は、長きにわたり“中立地”として扱われ、どちらの国も積極的な開発を控えていた。だが、今。その沈黙の地に、新たな意義が与えられようとしていた。


 先頭の馬車を歩いて先導していたのは、王国側の文官代表サリア=ロイエル。彼女は涼やかな目で地形を確認しつつ、後ろを歩く魔王国の研究主任ガル=ネヴァと短く意見を交わしていた。


 少し離れて、アヤとレグニスの姿があった。


 「……ずいぶん静かな村ね」

 アヤが呟いたその言葉に、レグニスは微かに首を振った。


 「いや、違う。“見られている”」


 彼の言葉の通り、視線はあった。気配があった。木陰から、窓の隙間から、村人たちが視察団の様子をじっと伺っていた。


 この村には、人と魔人(獣人)が同じ盆地の中で距離を保ちつつ暮らしていた。表立って共存しているわけではないが、互いに干渉せず、時に協力し合うという、緩やかな均衡の上に成り立つ村だった。


 村の広場に着くと、数十人の村民たちが集まっていた。

 誰も声を上げず、重苦しい空気だけが流れる。


 その前に立ったのは、年老いた村長だった。杖をつきながら一歩一歩、ゆっくりと進み出る。


 「……話は、聞いております。ですが、ここは……我々が静かに生きるための土地。国の旗も、魔の印も、持ち込まないと決めて、暮らしてきました」


 その声には、静かな怒りと疲労が滲んでいた。


 サリアが一歩、前へ進む。


 「わかっています。私たちは、この土地を“奪う”つもりはありません。ただ、ここが中立地だからこそ、命を守る場として理想だと考えたのです」


 「命……」

 村長が低く反芻するように呟いた。


 「この地には、長い夜があります。戦の傷跡、病の爪痕、魔物に襲われた記憶――何ひとつ、忘れられたものはない。そんな場所に、拠点など……笑い話にしか聞こえません」


 場に、重苦しい空気が流れた。






 視察団が分かれ、周辺の地形や村の様子を確認するために動き出した。

 アヤとレグニスは村の端、やや開けた高台に佇んでいた。微かに霧が漂い、足元には湿った苔と野草が広がっていた。


 「……ありがとう」


 ぽつりとアヤが言った。

 レグニスがその横顔を振り返る。アヤはまっすぐに彼を見ていた。


 「手紙のこと。……私、ちゃんと読んだわ。あの言葉に、救われた気がしたの」


 レグニスは無言で頷いた。その瞳に浮かぶ色は、王としての厳しさではなく、あの頃、彼女の隣にいたレイの温もりだった。


 「あなたは……変わらないのね。あの頃と」


 そう呟いたアヤの胸に、懐かしい記憶がよぎる。山村で共に過ごした日々。火傷しかけた自分を咄嗟に庇ってくれたあの夜。彼の手の温かさ、視線の優しさ――それらが今、現実として目の前にある。


 (この感情は、いったい……)


 胸の鼓動が速くなる。呼吸が浅くなる。普段の彼女らしくない動揺を、アヤは自覚しながらも隠せなかった。


 「私……その……」


 言葉が喉に詰まる。不器用な想いをどう伝えればいいのか、何を伝えたいのかすら、今はうまく言葉にならない。


 それでも、レグニスは柔らかく微笑んでいた。

「焦らなくていい。……俺はアヤを見てきた......だから........」


 その言葉に、アヤの頬が赤らむ。視線を逸らしながら、微かに唇が震えた。


 レグニスが続けて言葉を告げようと、口を開いた、そのときだった。


 「おい、出てきていいのか?」

 「もう限界だよ……」


 村の一角から、何人かの声が漏れた。戸が軋む音と共に、息を詰めていた村人たちが次々と外へ出てくる。


 「……白衣のおねえさんだ!」


 最初に走ってきたのは、一人の少女だった。

 花束を胸に抱え、アヤの元へ駆け寄る。


 「覚えてる……あのとき、夜が怖かった。おねえさんが“越えていい”って言ってくれた」


 少女が差し出した花は、この村の薬草だった。過去、感染症が蔓延した際、アヤが処方したもの。


 村長が目を見開き、驚きと共にその場に立ち尽くす。


 アヤは穏やかに頷き、少女の手を取りながら口を開いた。


 「夜は怖いものです。孤独や恐怖に覆われたとき、人は簡単に崩れてしまう。でも、夜を一緒に越える場所があれば……いつか、朝が来ると思うんです」


 二人に追いついたサリアがそっと目を伏せ、ぽつりと呟いた。


 「……“越える夜”。――名前にしましょう」


 彼女がアヤを見た。


 「“ノクス=フィア”。夜を越える者たち。ここに集まる命の名として――どうかしら」


 ガルが頷く。「理に叶う。名に、魂が宿る」


 レグニスも静かに言葉を添える。

 「名が象徴となるのなら、それは“越える意志”を示すもの。……その名に恥じぬ場所としよう」


 その夜、村の長老たちは集まり、ろうそくの灯の下で長い話し合いが行われた。


 意見は割れた。過去の痛みを忘れられぬ者、変化を恐れる者。だが一方で、アヤに救われた者たちが静かに声を上げる。


 「命を守るために来た人を、拒む理由があるのか」

 「私たちが“夜”を越えた証を、ここに残してもいいのではないか」


 そして、夜が明ける直前。


 村長が視察団の前に現れ、こう言った。


 「……よかろう。この地を“ノクス=フィア”と呼ぶならば、我らもまた、その一員となろう。過去の夜を越えた者として、これからの夜も共に歩もう」


 アヤは、深く頭を下げた。


 「ありがとうございます。私たちは、ここを命のための拠点にします。支配ではなく、共に築く“灯り”として」


 こうして、“ノクス=フィア”という名は正式に刻まれた。


 国境を越えて。

 種族を越えて。


 夜を越える者たちのために。  新たなページが、霧の中に記されていく。

 (私も、この胸の中に灯されたものを......告げないと...ね)

 フワリと心地よい風がアヤの白衣を揺らしていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ