私の意志
──魔王国 王城西棟・アヤ専用執務室
風が静かに帳を揺らしていた。高窓から差し込む陽光が、真新しい机の上を柔らかく照らしている。壁際には薬草棚と簡素な調剤台、中央には大きな設計図と資料束が置かれ、いかにも彼女らしい空間となっていた。
この部屋は、“正式な賓客の仮住まい”という名目で与えられたものだったが、今やアヤにとっての第二の拠点だった。王城の喧騒から離れた西棟の一室で、彼女は今日も静かに作業を進めていた。
ふと、扉の前にそっと置かれた二通の封書に気づいた。
一つはアデルナ王国の公印を模した紋章が押され、もう一つは漆黒の封蝋が飾られていた。
アヤはしばらくそれらを見つめてから、アデルナ王国からの封を静かに解いた。
──あの端正な筆跡。落ち着きのある文字のひとつひとつが、彼の性格を思わせた。
《君が無事に任を果たしたと聞いた。だが、君自身の体調を心配している者も多い。もちろん、私も含めて。
“命に国境はない”……その言葉に、私は深く胸を打たれた。
君が選んだ道に、私たちも共に歩む。だが、私がこの文を書いているのは、王としてではなく、ひとりの人間としてだ。
君が初めて王宮に現れたとき、白衣に泥がついていた。君はそれに気づかず、患者を運び、声を荒げ、時に涙を流していた。
あのときから私は、君という存在を“敬意”だけでは語れないものとして見ていた。
君の強さと、優しさと、時折見せる隙──それが、私にとってどれほどの支えだったか、君は気づいていただろうか?
君が立ち止まることがあれば、私は“そこに戻れる場所”を用意していたい。
君が望むなら、いつでも帰ってこられるように。
この手紙を、どう受け取ってもらえるかはわからない。ただ、言葉にしなければ後悔すると思った。
だから、今はただ願っている。
君の歩む道が、安らぎと共にあることを──
アデルナ王国 国王 レオンハルト》
アヤは、便箋の上に指先を添えてしばらく動かなかった。
「……王としてではなく、人として……」
レオンハルトの言葉が胸に沁みる。彼は常に“選ぶ”者だった。
国の未来を、兵の命を、そして民の安寧を、誰よりも先に選び取る覚悟の人。
そして彼は、アヤ自身にも“選ぶ自由”を残し続けた。
名を呼ぶ時も、伴に立つ時も、指一本触れず、ただ彼女の判断を待つ──
──そんな男が、自らの想いを言葉にするまで、どれほどの時間をかけたのだろう。
アヤの胸に、ふとよぎる記憶がある。
まだ王宮に来たばかりの頃、ひとりで資料を読みふけっていた深夜、差し入れられた紅茶。
名前も顔も見ずに受け取ったそれは、翌朝の執務室で偶然知った。
「あれは、陛下が自ら持っていかれたのですよ」
そう告げた近侍の言葉に、アヤは何も言えなかった。
気づくべきだったのか。気づいていながら、見ないふりをしてきたのか。
「……本当に、あなたらしいわね」
小さく微笑むと、アヤはもう一通の封書に手を伸ばした。
墨色の封蝋に刻まれた紋章――魔王国王家の印。
彼女はその印に指をかけ、静かに封を切った。
封を切った瞬間、ふわりと香草の香りが立ち上る。
そこには、レグニス=アーガイルの流麗な筆致が綴られていた。
──レグニスからの手紙──
《君が書き遺した言葉を、私は今も胸にしまっている。
“恐怖に抗うのではなく、希望を育てたい”と。
かの地に生まれる拠点が、まだ名も持たぬその場が、
真に命を守る灯となるのであれば、我が魔王国は喜んでその灯を囲む盾となろう。
私が君に与えられるものは、数少ない。
だが一つ、王としてではなく、レグニスとして伝えておく。
あの日、君が毒霧に足を踏み入れたとき、私は心の奥で祈っていた。
君が戻ってくることを。
君が、生きて、また笑うことを。
君の生き方は、誰よりも強く、そして誰よりも優しい。
だからこそ、それが時に孤独を招くことも、私は知っている。
……どうか、君自身の命も守ってほしい。
君が歩むその道を、私は影となって見守る。
そして、必要なときは必ず傍に現れる。
この手紙が、君の歩みに寄り添うものでありますように。
魔王国 レグニス=アーガイル》
文面を読み進めるにつれ、アヤの胸の奥に、懐かしい情景が蘇る。
あの頃。
この世界に来て間もなかった自分が、何も持たずに辿り着いた山村。
そこで暮らしていたのは、名も名乗らぬ少年――レイ。
「……レグニス、じゃない。あのときは、“レイ”だったのよね」
細やかな日常の記憶が、ひとつ、またひとつと浮かぶ。
――その日も、寒い朝だった。
小さな台所。薪をくべる手つきも慣れたレイが、煮込み鍋の様子を見ていた。
「あ……その、て、手伝うわ! ……あ……に、苦手だけど」
言いながら、アヤは慌てて袖をまくって台所に駆け寄った。
心意気だけは立派だが、手順をまるで知らない。
レイが驚いてこちらを向いた直後、アヤは鍋の脇に触れそうになり――
「危ないっ!」
レイが反射的にアヤの手をつかみ、自身の体で彼女を引き寄せた。
バランスを崩した拍子に、アヤはレイの胸元に抱き寄せられるような形になる。
「っ……ご、ごめん……」
耳まで真っ赤になるアヤ。
レイは慌てて彼女の手を確認し、すぐに水桶のそばへと連れていった。
「……火傷は浅い。冷やせば跡にはならない」
どこか慣れた手つきで、アヤの手の甲に冷水を当てる。
水の冷たさよりも、彼の手の温もりと、至近距離で交わる視線が、胸の奥に妙なざわめきを残した。
(……この距離、近すぎる……)
ぎこちなく目をそらしながら、アヤは心臓の高鳴りをごまかすように咳払いをした。
「な、なんか……あなた、慣れてるのね。こういうの」
「昔、よく他人を庇って火傷したからな。……アヤにも、させる気はない」
短く答えた彼の声は、どこまでも静かだった。
その日のことは、なぜかずっと心に残っていた。
台所に立つレイの背、湯気の向こうの横顔。
すべてを自分ひとりで背負おうとしながら、誰よりも人の痛みに敏感だった少年。
あれから何年も経ち、彼は魔王レグニス=アーガイルとしてこの国を率いている。
だが、文面から滲む想いは、あの冬の日と同じだった。
「……変わらないのね、あなたも」
アヤは静かに手紙を折り、手元の箱にしまった。
それぞれの言葉が、異なる形で彼女を支えていることに、気づいていた。
「……ふたりとも、ほんとに……」
呟きながら、アヤは微笑んだ。
愛情と信頼に包まれた二通の私信。
そのすべてを受け止めた上で、彼女は机の上に向き直る。
その時、ふと思い出した。
――数日前、ミリアに茶目っ気たっぷりに聞かれたあの問い。
『アヤさんは、レオンハルト様とレグニス様、どちらが“お好き”なのですか?』
あの時は笑ってごまかした。
でも、いまなら少しだけ自分に問える気がする。
(私は……どうしたいの?)
前世でも恋愛には疎かった。
結婚もした、母にもなった。
けれど、心の奥底で人を想うということを、きちんと考えたことがなかったのかもしれない。
だが今は違う。
ふたりの想いに気づいていながら、仕事を理由に、心の答えから目をそらしていた。
――もう、誤魔化せない.......よね。
アヤは静かに立ち上がり、窓の外を見た。
空は高く、風は穏やかだった。
「私は、私の意志で選ぶ。誰かに委ねるのではなく、自分の足で」
その呟きは誰に向けたものでもなかった。
けれどその背には、一歩ずつ歩もうとする決意が宿っていた。
机の上に視線を落とす。
そこには、フェリア盆地の地図、種族別の研修体制案、そして初期配備物資の計画書。
アヤはゆっくりとペンを取り、目の前の設計図の片隅に記す。
「――命に向き合う者の、居場所を」
その言葉は誰にも見せない、静かな誓いだった。
こうして、アデルナ王国と魔王国は、正式に共同医術研究拠点の設立を宣言した。
帝国の陰に対し、命の連帯という光を掲げる選択である。
それは、静かに進行する“戦争の予兆”に対する、最初の明確なカウンターであった。




