剣を抜かぬ戦い
──アデルナ王国 王宮戦略室
白壁に囲まれた王宮の戦略室には、重々しい沈黙と緊張が満ちていた。
広げられた地図の上には、赤く記された帝国北西部の座標。そこには、“応用生体戦略局”と記された印が、深い影を落としていた。
机の中央には、密封されたガラス瓶と分厚い記録文書が置かれていた。中には、魔力に反応して変性を起こす“魔物化因子”の情報と、その作用過程を示す実験記録。
アデルナ王国の諜報組織《灰の鴉》筆頭隊長カイルが、静かに報告を始めた。
「……帝国の研究は、感染性を持つ人工魔物化因子を用いた戦術兵器の開発に関するものでした。対象は主に、魔族および魔力感応体質者。暴走を誘発し、自我を崩壊させる仕組みです」
その言葉に、室内の空気が一段と冷え込んだ。
「つまり、制御可能な“感染”による生物兵器……」
アヤは低く呟いた。
カイルは頷いた。「はい。標的地域を内側から壊し、混乱と排斥を煽る。そのための“毒”です。逃亡者の証言と提出された証拠により、帝国の一部研究機関が長期的にこれを進めていたことが確認されました」
レオンハルトは黙って記録文書を手に取り、頁をめくる。そこには、異形と化した被験者たちの記録写真と、彼らの末路が淡々と記されていた。
「……これは、正義と研究の名を騙った虐殺だ」
低く呟かれたその声は、怒りと哀しみに濡れていた。
アヤは視線を落とし、問いかけた。
「逃亡者は?」
「保護済みです。ただし、重度の内部感染が進行しており……貴女が提供した処方によって命は繋がれていますが、予後は不明です。彼は“償う術はない”と繰り返しながらも、最後にこの記録を託しました」
アヤは静かに目を閉じた。
「……彼が語ったものが真実なら、この情報は帝国が世界に背を向ける選択をした証だわ」
レオンハルトは深く頷く。
「だが、背を向けられたからといって、我々まで背を向けるわけにはいかない。むしろ、命に向き合う拠点を持つべきだ」
「アデルナと魔王国が連携して進めていた医術拠点設立案……これを、いまこそ形にするときです」
サリアが声を上げる。
「候補地は中立地フェリア盆地。かつて感染が広がりかけた地域であり、魔族・人間の混在居住区域。複雑な過去を持つが……ここを“新たな命の拠点”に」
レオンハルトは視線を上げる。
その場にいた者たちは、静かに頷いた。
誰も言葉に出さなかったが、彼らの胸中にはすでに一つの決意が灯っていた。
“命のために剣を抜かぬ戦い”が、ここに始まる。
◇◇
──魔王国 重要会議室
王を含めた重要会議室。レグニス=アーガイルは、眼前に差し出された報告書を無言で読み進めていた。
深い紅と漆黒の文様が刻まれた表紙の裏には、アヤの筆跡で添えられた小さな紙片があった。
>“命に国境はない。恐怖に抗うのではなく、希望を育てたい。”
その一文を目にした瞬間、レグニスのまなざしがわずかに和らぐ。彼は無言でその紙片を取り出し、懐に静かにしまった。
再び報告書を読み、その表情は静かな怒りを含めたものとなる。
「……愚かだ」
彼の呟きには、ただ、深く沈んだ澱のような静けさが宿っていた。
近侍のユノスが、慎重に言を発した。
「陛下。因子による被害が、辺境自治区フューリスでも確認されました。……例の炭素変異型。症状と反応、すべて一致しています」
レグニスは報告書を伏せ、視線を天井の闇に投じた。
「かの地に投入された因子は、感染性を持ち、魔素に過剰反応して“魔物化”を誘発するもの……。それを帝国は制御兵器と見なし、わが領土で実証実験をした。……愚劣にも程がある」
ユノスはさらに声を低くして言った。
「ですが――その時、アヤ殿が現地にいてくれました。彼女がいなければ、今ごろは村ごと……」
レグニスの瞳が細められる。
「知っている。あの時、彼女は自ら毒霧の中心へ踏み込んだ。命を賭して、子どもたちを治療した。……彼女のしたことは、もはや“医術”を越えている」
重臣席のほうで、低くざわめきが起こる。
「陛下、そろそろ考えるべきでは?」
「このまま“医術士アヤ”として留めてよいのか。彼女を魔王国の正式な庇護下に置くべきです」
レグニスは手を上げた。場がぴたりと静まる。
「その件については、今語る時ではない」
その声音には、王としての静かな威厳と、ひとりの男としての感情がにじんでいた。
ユノスが慎重に話題を戻す。
「では、陛下。アデルナ王国と……正式に“共闘”を?」
レグニスは席を離れ、傍に用意された資料机に広げられた地図へと歩み寄る。
その中心に記されたのは、フェリア盆地――中立地帯にして、医術研究拠点の候補地である。
彼は報告書の上にそっと指を置いた。
「恐怖によって作られた戦争に、我らは“希望”で応える。アデルナ王国と共に、この地に“命の拠点”を築く」
重臣のひとりが進み出て、疑念を口にする。
「……陛下。しかし、帝国がその“共闘”を口実に新たな干渉を仕掛けてくる可能性も否定できません」
「ならば、なおのこと。我らの姿勢を明らかにする必要がある」
レグニスは断言した。
「我らは、“命を救う意志”をこそ誇りとする。剣よりも、心で結んだ誓いを。……アヤの歩んだ道は、それを示した」
ユノスがひとつ頷き、言葉を重ねる。
「では、アデルナ王国へ正式文書を……」
レグニスは再び報告書を手に取る。そこにはもう、アヤの注釈は残っていない――それは彼の懐の中にある。
「この言葉に、応えよう。“命に国境はない”……そう在る世界を作ることが、我らの誇りだ」
黒曜の王が、静かに命じた。
「文を用意せよ。魔王国はアデルナ王国との共闘に応じ、中立地における医術拠点の設立に全面協力する」
それは、戦争の影に抗うための、最初の光だった。
魔王国は、恐怖をばら撒く者に剣を振るうのではなく――命の重みに応える道を選んだのだ。
そして会議が終わった後。
去り際に残された小さな声が、重臣たちの間で囁かれた。
「いっそ、アヤ殿を王妃に迎えるおつもりでは……?」
「しかしそれは.......」
「民衆のほとんどがアヤ殿を知っている」
「だが......人でもある......」
それを耳にしたユノスは、ふとレグニスの背を見る。
だが王は振り返らず、ただ静かに、その歩みを止めることはなかった。




