夜明けに立つ者
──王宮・東庭園 黎明前
まだ夜の気配をわずかに残す空に、淡い光が差しはじめていた。
空は、群青から青白へと、ゆっくりとその色を変えつつあった。
私は庭園の高台に立ち、街の灯が消えていくのを静かに見下ろしていた。
この数年、私は王として、多くのものを選び、そして多くのものを選ばなかった。
剣を抜くべきときに、抜かずに済ませた。
妃を定めるべきときに、誰の手も取らなかった。
敵を裁くべきときに、言葉を選び、民の不安を正面から受け止めた。
……だが、それは果たして“選ばなかった”のか。
それとも、何か――いや、“誰か”を、選んでいた結果だったのか。
私の心の奥に、ひとつだけ、確かな存在がある。
――アヤ。
彼女の名を、口に出さずとも、私は何度も心の中で呼んできた。
遠くから見ていた背中は、いつも凛としていて、孤独で、そして美しかった。
彼女は、強い女だ。 人を救うことに迷いがなく、他者の痛みに敏感で、けれど自分の痛みには極端に鈍感な。
助けることに理由はいらない――そう言った彼女は、幾度となく命の限界に立ち向かい、幾度となくその境界を越えた。
それでも、彼女は誰かに寄りかかろうとしなかった。
自らの足で立ち、崩れかけても、誰にも涙を見せなかった。
私は、そんな彼女の背に、何度も手を伸ばしかけた。
そのたびに、自らの王としての立場が、彼女の自由を奪ってしまうことを思い出し、指を引いた。
私が与えられるものは、玉座か、あるいは束縛だけだった。
だが彼女が望むのは、そういったものではない。
彼女は“命の選択”を尊び、自ら選ぶことにこそ意味を見出す人間だった。
だからこそ、私は何も与えないと決めた。
地位も、命令も、束縛も。
ただ、彼女が彼女でいられるように、余白を与える。
その余白こそが、私にできる唯一の“贈り物”だった。
近侍がある日、私に問うた。
「陛下。アヤ殿を王宮にお迎えなさっては? 魔王国にてその身を置かれ続ければ、世論もまた……」
私は短く答えた。
「それでも構わぬ。彼女がどこにいようと、私は彼女の意思を信じている」
内心では、もちろん怖れもある。
彼女が王国を離れ、やがてそのまま帰ってこない未来も、可能性として否定できはしない。
だが、それでもなお、私は“奪うこと”はできなかった。
私が彼女を妃として迎えること。
それは、容易い言葉で語れるほど軽いものではない。
政治的な意味も、周囲の思惑も、それこそ未来のかたちさえも変えてしまう。
それでも――私は、彼女を愛している。
けれど、支配したくはない。
選ばれたいのではない。
彼女に、“私を選んでほしい”のだ。
私は“選ばれる王”でありたい。
彼女が望んだとき、ただその手を差し出せる王でいたい。
それが、私のたどり着いた想いだった。
夜が、薄明に染まり始めている。
空にはまだ一番星が残っているが、やがてそれも、朝の光に呑まれていくだろう。
私は時折、自分が王でなければ、ただの一人の男だったなら――と考えることがある。
だが、もしそうだったら、きっとアヤとは出会えていない。
あの戦場で、王宮で、そして数々の命の現場で、彼女と交わした言葉も、目も、
私が“王”であったからこそ、結ばれた瞬間ばかりだった。
だからこそ、この身を呪うことはしない。
むしろ、この王の身であってもなお、彼女の選択に並び立てるよう努力する。
私が守りたいのは、彼女そのものではない。
彼女が貫いてきた在り方、その生き方、その強さと脆さ――すべてを含めた“彼女の自由”だ。
今、彼女は魔王国で、命を紡ぐ現場に身を置いている。
そこに、私が割り込むべきではない。
彼女のそばに立つ者が、誰であれ。
それが王であれ、魔王であれ。
……それでも。
彼女の人生のどこかに、私という王がいたことを、記憶の片隅にでも残してくれるなら。
それで、いい。
――いや。
願わくば。
再びあの背を、肩を並べて歩ける日がくるなら。
そのときこそ、私は.........。
アヤという一人の女性に、王ではなく、一人の男として名を呼んでもらいたい。
東の空に、朝日が差し込んだ。
新たな一日が、始まる。
王都の屋根が、淡く朱に染まりはじめる。
私は、まだ誰もいないこの庭園で、静かに立ち尽くしていた。
この国に、そして彼女に、今日という日を繋ぐために。
それが、私の選んだ“覚悟”だ。




