主を待つ玉座
──魔王国・王城「白き間」深夜
白銀の月が天頂に昇り、王城の天蓋を静かに照らしていた。
闇に包まれた広間の中央、空位の玉座の前に、一本の剣が突き立てられている。
黒銀の刃――その柄に誰の手も触れぬまま、長い年月を過ごしてきた剣だった。
剣の前に、ひとりの男が立っていた。
黒衣を纏い、肩には重責の影を宿したその青年は、名をレグニス=アーガイル。
けれど彼は、いまだ正式には“魔王”と呼ばれることを拒んでいた。
彼は剣を見つめ、ただ黙していた。
その視線には、迷いと痛みが映っていた。
「……貴方なら、抜けると思う」
背後から、静かに声がかかった。
それはアヤだった。
ゆっくりと歩み寄り、レグニスの隣に立つ。
「ずっと見ていたの。あなたがこの国のために、誰よりも血を流し、言葉を飲み込んできたこと」
彼は微かに表情を揺らす。
「それでも、私は……この剣を抜くことで、もう“自分”ではいられなくなる」
レグニスの声は低く、胸の奥で重く響いた。
「私が玉座についたその瞬間、すべてが変わる。個としての私が消える。誰かを守る言葉が、誰かを縛る命令に変わる。沈黙が、他者の命を奪うことになるかもしれない」
彼は、ふと剣から目をそらすように視線を落とした。
月の光が、その頬を淡く照らしていた。
アヤはその姿を見つめながら、そっと口を開いた。
「……私、思い出すの。まだ、貴方が“レイ”だった頃のこと」
レグニスの目が、ゆっくりと彼女を見た。
「覚えてるわ。傷だらけの少年だった貴方。魔族だってわかったけど、目の奥に宿った命の灯を見た瞬間……放っておけなかった」
「……アヤ」
「貴方、私の手を掴んで言ったの。『死にたくない』って。それだけが、あのときの貴方の願いだった」
レグニス――いや、あのときの“レイ”は、確かにそうだった。
命の境をさまよい、半ば捨てられたような存在。
それを救ったのがアヤだった。
「私ね。あのときから、貴方を見ていた。誰よりも生きることに必死だった、貴方を。だけど貴方は、救われた命を自分のものじゃなく、この国のために捧げようとしてきた。私なんかより、ずっと強い」
「違う。君が、私のすべての始まりだったんだ」
レグニスの声が、震えた。
「君と過ごしたあの村で、私は初めて『命は守られるべきものだ』と知った。……君の手が、私の存在を否定しなかったから」
静かな沈黙が、ふたりを包んだ。
それは痛みを乗り越えた者同士にだけ許される、尊い静寂だった。
「……ねえ、レイ」
アヤは、昔呼んだその名前をそっと口にした。
「私は、今でも変わらない。ただ、命を救いたいだけ。誰かの、未来を繋ぎたいだけ」
「……君は、変わらない」
「そして、私も変えない。あなたが歩いてきた道を。だから、あなたの手で抜いて。あなたのためじゃない。貴方が救ってきた命たちのために――」
レグニスは目を伏せ、しばらくのあいだ言葉を飲み込んでいた。
けれど、やがて小さく息を吐き、剣へと手を伸ばした。
「君が言うのなら、私はもう迷わない」
その手が柄を掴んだ瞬間、剣が淡く光を帯びる。
黒銀の刃が、音もなく引き抜かれた。
月光を受けて、刃は静かに輝き、長く眠っていた力が目覚めたようだった。
そして――その剣を携え、彼は玉座へと歩を進める。
一歩一歩、確かな足取りで。
玉座の前で、彼は一瞬、後ろを振り返った。
アヤは微笑んでいた。
それは、母のようでもあり、同志のようでもあり、ひとりの女のようでもあった。
「行って」
その言葉に背を押されるように、レグニスは玉座へと座した。
王なき王国に、ついに主が戻った。
後日、魔王国全土に告げられる。
**「魔王レグニス=アーガイル、玉座に即位せり」**と。
それは、かつて少年であったレイが、命を救われ、導かれ、そして王となる物語。
そして彼を支えた白衣の医術士、アヤとの、新たな時代の幕開けであった。




